言いたいことがなにもない

プライベートな日記です

赤ちゃんの沐浴を父親が朝に行うススメ

我が家では、朝に娘をお風呂に入れている。

 
いくつかの理由があって、
  • 生後まもない頃、娘の頭を片手で支えながらお風呂に入れるのは力が必要だった
  • 少しでも奥さんの睡眠時間を確保する
  • 少しでも育児の作業を分担する
といったものがあった。
 
最初は朝7時に起きなければならないし、たくさん泣かれるしで大変だった。
どうやったら泣かさずにお風呂に入れられるか、苦心の結果をブログにまとめていた。
 
 
でも、夫が仕事に行く前にお風呂に入れてあげるのは、先に書いた理由を解決するだけではない、もっといいことがある。子供の成長を感じられることだ。
 
仕事に行くと朝しか会えなくなるけど、お風呂に入れてあげることで触れ合う時間ができるのだ。
ベビーバスに入らなくなったことで身体が大きくなったことを感じる。お風呂に入れても泣かずにニコニコしている姿を見て、世界に慣れてきたことを感じる。お風呂のおもちゃで遊ぶ様子で、少しずつ手先が器用になってきたことを感じる。お風呂の中で、たくさんお話しして、お湯をバシャバシャしてくれる。
そんな毎日の少しずつの変化を見ていくことができるのだ。
 
でもこれから娘は保育園に入り、奥さんも仕事が始まる。そうすると、奥さんの仕事で出掛けるタイミングの都合から、朝にお風呂を入れるのは止めて、奥さんが夕方にお風呂に入れなければならなくなる。無理して朝にお風呂に入れるとなると、娘は遅くとも6時半までには起きなければならず、それは少し可哀想だ。だから、朝にお風呂を入れることはもうすぐ終わる。
 
もうあと数日だけの機会だと思うと、最初は大変だったけれど、本当に大切で幸せな瞬間を毎日過ごせていたんだな、と思う。あーこんなに寂しくなるものなのか。
せめて休日だけは、僕がお風呂に入れてあげようと思っている。
 
 

mogwaiのライブが最高という話

先日mogwaiのライブに行ってきた。mogwaiのライブに行くのは、多分10回は超えている。そこまで通っているのは日本のバンドでもあまりいない。

どんなバンドかといえば、爆音ギターのインストバンドだ。初期の曲で、僕が最もよく聞いていたX'mas Stepsという曲がある。
 
例えばこの曲は、静かなギターの音で始まる。それが少しずつ不穏さを増していき、歪んだベースの音が重なるとともにテンポが上がっていく。4:18くらいから、ザクザクとしたギターリフのユニゾンが始まり、4:50からギターの爆音が炸裂する。これがライブで聞くと、ギターからこんなデカイ音が出るものなのかとひっくり返るのだ。
 
初めてmogwaiのライブを見たのは、2000年のフジロックだ。あまりの爆音に衝撃を受けて、そのすぐ後の来日公演にも親友を誘って行った。
今はなき新宿リキッドルームで見たのだけど、終わった後に友人が「新宿が吹き飛ばされたかと思った」という秀逸なコメントを残した。
 
mogwaiは日本を好いてくれているのか、当時は一年にニ、三回来日してくれることもあった。
彼らもずっと変わらないようでいて、途中でバリーが加わって人数が増えたり、少しの間だけチェロが加わって抜けたり、約30分の曲を演奏したり、また打ち込みやボーカルを加えたりと、爆音ギターのインストバンドという形態の中で変化し続けている。
 
でも変わらないのはライブだ。いつでも緊張感と殺気がある。爆音だけでなく、極力小さな音で緊張感をもって演奏している時も素晴らしい。曲の最中、確かジョン・カミングスが飲み物の缶をプシュッと音を立てて開けてしまった時、「やっちまったー」みたいな顔をしていたことがあった。
 
インタビューDVDで、メンバーは口を揃えて「バリーは天才だ」と言う。確かにバリー加入以前と以後では、より音楽的になり、音像もバラエテイに富むようになった。
しかし、mogwaiの核はステュアートのギターだと思う。彼のギターがあるからこそ、緻密で、そして緊張感と殺気が漲っている。
 
mogwaiを轟音ギターのバンドと呼ぶ人もいる。むしろそう呼ばれる方が多い。だが僕にとっては爆音ギターのバンドだ。
轟音という言葉には、包み込むような空間の要素がある。もちろんmogwaiの曲も、マイブラの影響を受けた美しいギターのホワイトノイズが轟音のようになる曲もある。古くはマイブラ、その後はmogwaiの影響によって、世界中で轟音のバンドが増えた。
しかし、mogwaiが持つ殺気を取り入れるバンドは少ないように思う。一時期ポストロックが流行った時、だいたいのバンドがだんだん盛り上がって音が大きくなる曲を演奏していた。
 
mogwaiの曲もだんだん盛り上がるが、その音像はもっとザクザクと、包み込むようなものではなく、聞いているものをなぎ倒そうとしてくる。そのような意味で、僕にとってmogwaiは爆音ギターバンドだ。
 
そのようなmogwaiも、爆音を発揮できるライブが至高で、音源では中々本領が発揮できない。
2ndのcome on die youngは、緻密な設計と緊張感から、音源でもmogwaiらしさを十分に発揮できていたと思う。しかし、どうしてもワンパターンになりがちなこともあり、中々音源なりの良さを発揮できなかったと思う。

 

カム・オン・ダイ・ヤング(デラックス・エディション)

カム・オン・ダイ・ヤング(デラックス・エディション)

 

 

 だが、ここ二作は音源としてもとても良い。mogwaiも良い意味でベテランになり、曲もバラエテイに富み、力の抜けた展開が適度に混ざることもあり、一枚を通して聞いても飽きない。

例えばHardcore Will Never Die But You Willの中にToo Raging to Cheersという曲がある。静かで不穏で、少し悲しげな演奏に、mogwaiにしては珍しいいかにもマイナーな旋律のバイオリンが重なり、最終的に爆音のアンサンブルで締めてくれる。mogwaiは、このような分かりやすい形でマイナーなメロディや雰囲気を出すことは避けてきたように思っていたが、それを表現しつつ、いつもの爆音もちゃんとあることに、彼らの積み重ねてきた自信を感じる。

特にライブだと、バイオリンの旋律をスチュアートがギターで弾くのだが、このような泣きの旋律をギターで演奏することは全くなかったと思う。でもとても似合っていた。

 

www.youtube.com

 
今年、結成20周年だという。年齢を重ねても実験的で、かつハードコアなままでいてくれるmogwaiのライブや音源が今後も楽しみだ。

 

Hardcore Will Never Die But You Will

Hardcore Will Never Die But You Will

 

 

Rave Tapes

Rave Tapes

 

 

心暖かな人たちが開いたレストラン

若林駅三軒茶屋の間にRestaurant Tezeというフランス料理のお店があった。ご夫婦のみで回されている、こじんまりとしたお店だった。

そこでは何回かの奥さんの誕生日を祝い、クリスマスを過ごし、両家の顔合わせも行った。暖かみのある繊細な味で、とても美味しかった。さらに一般的なフランス料理の店舗と比べても手頃なお値段だった。

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これは前菜で出てくるラタトゥイユのジュレ。いつも色とりどりの野菜で、爽やかな味のラタトゥイユを出してくれた。

本当にオススメする、心の中で大切にしているお店は、流行って欲しい、自慢したいと思う一方で誰にも言えない。思い入れが強くなると、自分の場所のように感じてくる。

ご夫婦と特別な会話をすることはなかった。でも食事が終わり、出て行くときにいつも二人で微笑みながら見送ってくれた。暖かな空気で満ちたお店だった。

奥さんが妊娠をして、その店からしばらく遠ざかっているうちに、いつの間にか移転してしまっていた。今は札幌で店舗を出す準備中らしい。できることなら、ご夫婦にお別れを言い、最後にもう一度コースを食べてみたかった。

いつか、娘が大きくなったら、札幌で食べさせてあげたいと思っている。

【ブログ】Restaurant Teze~Tezeのつぶやき~ | Restaurant Teze

もう一店舗思い出の店がある。

これもフランス料理になってしまうのだが、僕らが結婚式を挙げたお店だ。


ぐるなび - マノワール・ディノ(表参道・青山/フレンチ(フランス料理))

来て頂いた方に出来るだけ美味しい料理が出るよう、いくつかのお店を試食して回った。どうでもいいけど、会場を探す目的で伺うと、大抵かなり安く試食できるので、結婚式を準備中のカップルにはデートにもおすすめだ。

そうしている中で見つけたお店だ。

このお店の自慢の料理と紹介されて出てきた、フォアグラのムースがとても美味しかった。一口食べた時に、奥さんと顔を見合わせて、その時に「ここにしよう」と大体決まった。

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料理が美味しいのはもちろん、内装や外観の美しさ、またおもてなしが素晴らしかった。おそらくオーナーの女性は、ほとんどのお客さんの顔を記憶している。参列者の一人が過去にマノワール・ディノで開かれたパーティに来たことがあったようだが、その事を覚えていて話しかけていた。これがプロフェッショナルなのかと思う。奥さんの妊娠中に一度訪問したけれど、僕らの事を覚えてくれていたばかりか、結婚式の様子も覚えてくれていた。

子供ができて、フランス料理に行く機会はなくなった。でもいつか、このお店にもまた行くことができたら、と思っている。

お店の良さは味だけが決めるのではなく、料理の見た目、器、お店の外観、空気、そこで流れている音、接客なども大事な要素だ。

僕にとって思い出となるレストランは、自分たちの料理とそこに集まるお客さんを愛する心暖かな人たちが開いているお店だ。


大切な人との思い出作りに最適な、"ベスト・オブ・ベスト"。渋谷にあるフランス料理店とは? - みんなのごはん

 

ぐるなびお題「思い出のレストラン」

 

娘が歩いた日の話

友達と遅い新年会をするということで、朝から掃除をしていた。掃除機をかけていてふと振り返ると娘が笑いながら二歩三歩と歩き始めた。

一歩だけ足を出すことができるようになってから二週間が経過し、ついに記念すべき日がきた。
 
別の部屋で掃除をしていた奥さんもやってきて、二人で大騒ぎしながら拍手をした。拍手をされるほど嬉しくなるのか、数歩歩いてはぺたりと座り込んでしまうものの、それからまた何度も立ち上がって歩き出す。
人が初めて歩くときは、こんなにも一歩一歩が慎重で、そして一歩一歩を新鮮に、楽しく感じているものなんだなあ。ふるふる震えながら、自分のペースで一歩足を踏み出せる度に、嬉しそうに笑う。
 
そんな貴重な日に友達が家にやってきて、娘が歩く姿を見てもらえた。みんなの拍手をもらってまた一層大はしゃぎしながら何度も歩いてくれた。子育ては大変だけど、驚くことと嬉しいことの連続だ。
 
そして夕方からみんなで飲み屋に移動する。前回は魚が美味しいお店だったので、今回は鶏料理のお店にしてみた。前職で一緒だったメンバーだったけれど、気がつけば前職で一緒に働いていた年数以上に会っている。
 
1人が「数十年後におじいちゃんになって、またその時に山登りしたり、こうして集まれたりしたら、それはとても楽しそうだね」と言った。
 
僕も楽しみだ。
昔の自分は何も成さずに時が過ぎることは敗北だと思っていた。
今は時が過ぎることも楽しみに思える。

娘が一歳になった

2月15日、娘がめでたく一歳になった。

 
娘が産まれた日は、近年まれに見る大雪の日だった。


大雪の日の出産 - 言いたいことがなにもない

 
娘は奥さんの実家である群馬で一ヶ月を過ごした。毎週末、仕事が終わってから群馬に帰った。毎週群馬に行くのは疲れたけど、おかげで早いうちに子育ての大変さを知ることができたし、早くに父親の気持ちを実感できた。毎週来た方がいと言ってくれた奥さんに感謝している。
 
それから神奈川に帰ってくる日は大雨が降った。大雪に続いたものだから何か持ってるのかと心配したけど、それからは何の問題もない。元気によく笑う子供に育っている。ちなみに誕生日の今日は快晴だった。
 
群馬の実家では、奥さんの両親と世話をしていたけれど、神奈川では僕と奥さんだけで娘を育てることになる。赤ん坊は手がかかるし目を離せない。たった2人でこの娘を育てられるのか、不安でたまらなかった。外出もままならないから、毎週末には数日分のご飯を作ったり、食料を買い溜めしたりした。
 
お風呂に入れるにも試行錯誤を繰り返した。


赤ちゃんを泣かさずにお風呂に入れる作戦 - 言いたいことがなにもない

寝かしつけも悩んだ。


夜中に起きた赤ちゃんを待つかあやすかに悩む - 言いたいことがなにもない


こんな風に最初の頃は戸惑うことが多くて、特に奥さんは、乳児湿疹が出ては「これはアトピーでは」と、微妙な身体の動きや泣き止まなさから「まさか発達障害では」と心配していた。また、よく風邪をひいて熱を出していた。
僕と違って、一人で娘とずっと一緒にいるから、さらに気になったのだろう。さらに寝不足も重なり、ストレスが溜まっていたはず。正直僕はその心情を理解してあげられなかったし、ケンカも多かった。今思うと申し訳ない。

けれども区のイベントなどでママ友ができてからは、娘との日々を楽しそうに過ごしてくれるようになった。外出して気分転換できるようになったのも大きいだろう。

そういった不安も、娘が成長していく喜びの方が勝っていった気がする。


自転車は行く - 言いたいことがなにもない

娘は大きくなり、一緒にハワイにも行った。


育児休暇の気持ちで家族でハワイ旅行に行った話 - 言いたいことがなにもない


一人で立てるようにもなった。


一人で立つ - 言いたいことがなにもない


最近は、言葉を発するようになった。マンマとアンパンが言える。アンパンはいいから、早くパパと言ってくれないか。アンパン食べたことないだろ。

少し前までは寝かしつけするにも、抱っこして夜中に散歩に連れて行ったり、度々起きて母乳を欲しがったりと大変だったけど、最近は布団で寝転がってあげると眠るようになった。離乳食もよく食べる。
だんだん、僕ら以外の大人や子どもを見てニコニコと笑う、元気な女の子になっていった。

案外、一緒に会話したり、一緒に歩いて散歩する日が近いのかもしれない。なんだか想像がつかないけれど、その日はもう一年も経たないうちにくるはずだ。

前のように、音楽や映画に費やせる時間はかなり減ってしまった。でも子育てもアートみたいだ。一つの命が元気に楽しそうに大きくなっていく姿を目の当たりにすることは、とても美しいことだ。

さて誕生日の今日、娘は初めて偉大な一歩を踏み出した。まだ歩くには時間がかかるけれど、わざわざ誕生日に一歩だけでも歩いてくれるなんて、ドラマチックなことをしてくれる。

子どもが産まれて良かった。娘には幸せになってもらいたいし、そのためにできることをしてあげたい。次の一年はまた大変なことがたくさんあるはずだけど、それ以上に嬉しいことも多いはずだろう。

アメリカ人が見た、ナチスが台頭していくドイツの姿 『ヒトラーランド』

ナチスが行った行為は、人類の汚点として考えられている。なぜそんなことが起きてしまったのか。ヒトラーは狂人なのか。狂人だとするなら、支持した人々は何者なのか。

フロムは「悪について」で、ナチスを集団のナルシズムという病理にかかったもので、血族、国家、宗教、人種がその熱情の対象になってしまったと喝破した。

悪について

悪について

 

 実際、ふとしたことで簡単に狂気は伝染するのだろう。このまとめはリアリティがある。


今、改めて天皇機関説事件をおおざっぱに振り返ってみた~@noiehoieさんつぶやき編集 - Togetterまとめ

数年前、このまま戦争が起きるのではとドキドキしていた。今よりもさらに中国への反感が高まっていて、身の回りの友達でさえ、中国の悪口をまとめたブログをシェアして怒っていた。

それからまた今、書店は反韓国や反中国の本で溢れ、ヘイトスピーチの団体が登場し、ちょっとしたことで過敏にネトウヨが謝罪を要求する社会になってきた。こんな様子を見ていると、僕らが平和だと思っている社会は、ちょっとしたことで崩れてしまうのかもしれない。だからフロムの説には納得がいく。

 

一方で、全ての人がナチスを支持したとは思えない。当時を生きていた人たちの様子を、マクロではなくリアルに知りたいと思っていた。そうしたタイミングで、ふとこの本が目に止まった。ヒトラーランドという本だ。

ヒトラーランド――ナチの台頭を目撃した人々

ヒトラーランド――ナチの台頭を目撃した人々

 

 

ナチスは急に誕生したわけではないし、ヒトラーも急に台頭したわけではない。徐々にその勢力は拡大していったはずなのに、なぜ誰もあの狂気を止められなかったのか。後から知ったかぶった顔で振り返ることは誰にもできる。それならなぜあんなにも明らかな悪を、その時代の当事者は気づけなかったのか。

この本は、ヒトラーの誕生から世界大戦に至るまでを、当時のドイツで目撃していたアメリカ人のインタビューによる証言や手紙、その他未公開の資料を中心にしている。そうすることで、今の時代だからこその分析をせずに、生々しくその時々の空気感を伝えようとしてくれる。

まずなぜヒトラーナチスが誕生したのか。極右が誕生するには理由があって、第一次世界大戦に敗北して大きな負債を抱え、困窮するドイツの姿が描写される。

これは今の日本でも同じだと思う。当時のドイツほど困窮しているわけではないけれど、持たざる人が、特権を得ている(ようにみえる)在日の人々にヘイトスピーチをしている様子と被るものがある。

また、当然ヒトラーも最初は無名だった。会う人すべてが彼に何かを見出したわけではない。「彼は凡人である」という感想もたくさん持たれていた。しかし、いつの間にかナチスは拡大していった。けれども楽観主義の人々は気づかないふりをしていた。ポーランドもそうしているうちに、侵攻されてしまった。ユダヤ人の迫害は少しずつ始まっていった。ナチスは戦争を仕掛けてこない、国内で反抗勢力が立ち上がる、そう考えられているうちに世界は戦争に巻き込まれた。ドイツにいるジャーナリストやアメリカの大使がその危険性を発信しても、誰もがいずれなんとかなる、だから気にしないでいいと考えていた。

変わってしまったドイツが一目でわかったのかというとそうでもない。意外なことに、当時のドイツは入国が規制されていなかったので、たくさんの旅行者がいた。だが、その異常性には気づかなかった。たった一週間くらいの旅行では、ユダヤ人にふるわれていた暴力には出会わないのだ。

ドイツ国内ではどんな変化があったのか。メディア統制によるドイツが外国から攻撃を受けているという報道を信じてナチスを支持した人たちもいた。なんの前触れもなく、反ユダヤに転じる人々、ナチスの腕章をつける人々もいた。

改めてわかったことだが、やはり当時の人々が、全てナチスに賛同したわけではないのだ。戦時中は配給になり、満足な食事をとれているものはナチス関係者くらいだったようだ。ゲッペルスデンマークノルウェーに侵攻する旨をラジオで流した時、目に涙を溜めて「あのクソッタレの大ほら吹きが!」と叫んだ女性もいる。ドイツの家庭の約半数は家族を失い、悲しみに包まれていた。

でも、自分がその当時のドイツにいたら、ナチスに反対する声はあげられなかっただろう。歯向かうことは恐ろしいことだし、そもそも気づいた時には手遅れだっただろう。

今の日本は教訓を活かせているのか。こんなにヘイトがあふれていて、いつの間にか手遅れになる可能性もある。社会の空気が恐ろしい方向にいき、取り返しがつかなくなる前に、理性をもってそれを止めなければならない。

これはナチスだけが悪という話ではなく、人類が行った愚行であり、それを忘れてはいけないのだ。

 

ヒトラーランド――ナチの台頭を目撃した人々

ヒトラーランド――ナチの台頭を目撃した人々

 

 

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

 

 

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一人で立つ

娘を連れて、初めて山梨に帰った。一番上の兄も4歳と2歳の二人の子供を連れて帰省していたので、両親も含めると都合8人で過ごした。正月から一週間以上経ったとはいえ、賑やかでおめでたい、再びの正月気分になった。
真ん中の兄の一家も同じタイミングで帰省していたら、どれだけ賑やかだっただろう。

僕の親にとって、娘は5番目の孫になる。乱暴に平均してしまうと、3年に一回は孫を抱いている計算になる。
そうすると手馴れたもので、人見知りが始まったように見える娘も、すぐに笑わせてしまった。

そんな風に親が三人の孫と一緒に遊んでいる様子を見ていたら、自分の幼かった頃が、そんなに遠くない昔のように思い出された。俺はこんな風に、たくさん可愛がって育ててもらったのだ。こうして自分に子供が産まれてやっと、いくつもの大事なことを思い出し始めている。

親が「70まで生きることを目標にしていたけど、また東京でオリンピックをやることになったのでそれまでは生きることに決めた」と笑いながら言った。
それ以上に長生きしてくれそうなほど元気だけど、未来のことは誰にも分からない。
僕は、僕の親とは、あんなにたくさん一緒に過ごしていたのに、こうして離れて暮らしていると、もしかしたらあともう10数日しか会えないかもしれない、そんな可能性もある。

東京に戻ってくる前に、実家の二階のベランダから、娘を抱っこしながら外の景色を眺めた。富士山ももちろん、たくさんの山々が間近に見える。山の向こうは、かすかに吹雪いているように見えた。子供の頃は、この景色に吸い込まれてしまいそうに思っていた。娘にはどう見えているのだろう。この景色さえ、そう何度も見ることがないかもしれない。
それから、両親は毎年のように笑顔で手を振って送り出してくれた。

東京に戻ってきたら、娘が初めて自分一人で立った。僕と奥さんが大喜びしているのを見て、何度も一人で立って満面の笑みを浮かべて見せてくれた。