息子の入院
三日間、一歳の息子が入院した。
わりと子供によくあることで、僕も同じことで入院していた。
息子が入院することになり、自分の記憶も蘇る。
親に聞くと、僕の入院は幼稚園に入る前後だったらしい。
長く病院にいたこと、同じ病室に同年代の男の子と女の子がいたこと、女の子の持っていたおもちゃがどんなものだったかは忘れたけどやけに楽しかったこと、僕が先に退院することになり、手を振ったときにさみしかったこと。
あとは退院したあと、切ったお腹のあたりが焼けるようで不愉快だった。
うっすらと麻酔をかけられて手術室に運ばれる記憶もあるが、これはもしかしたら何かで見たテレビのシーンがごっちゃになっているのかもしれない。
僕の記憶がそれだから、そこまで入院に悪い記憶はなく、あまり心配はしていなかった。
しかし奥さんは違うだろうし、何より二泊三日病院に付きっきりだったので大変だったろう。
心配はしていなかったとはいえ、手術のあとで息子はぐったりとしていたし、点滴が体に巻き付いているのが不愉快なのか、ずっと嫌がって泣いていて可哀想だった。よくニコニコと笑う息子がほぼ笑わなかった。
四歳の娘も頑張った。義理の母に家のことは手伝ってもらったが、僕が幼稚園に迎えに行ったり、寝かしつけしたりお弁当を作ったりと一通りのお世話をした。
娘が母親と離れるのは、息子の出産、僕と一緒に行ったキャンプに続いて三回目だ。
娘もよく理解していて、文句も言わずに素直にご飯を食べたりとあまり駄々はこねなかった。
ただ最後の夜、お母さんからの電話の声を聞いて、気を張っていたものが弾けたのか「ママがいい〜」と泣いてしまった。夜もママ、ママ、と何度かシクシクしながら起きていた。
でも退院してからのお休みの日には、室内遊園地や動物園に行ったりして、みんなでたくさん笑って過ごした。
娘も息子も、入院の時期が嘘のように、本当によく笑った。
こうやって家族はチームになっていくのかもしれない。俺には知らないことがまだたくさんある。
編集でもライターでもないのに編集アドベントカレンダーにアサインされる
編集でもライターでもないのに編集アドベントカレンダーにアサインされてしまい、名だたる人たちの中で駄文を投稿することになった。いやむしろ身に余る光栄です。今日は16日目です。
しばらく前まで編集者とは何をする人なのか分からなかった。しかし今は切実に、編集者に助けてもらいたい。このお題で何を書いたらいいのか相談に乗ってほしい。ネタを相談する中で一つや二つくらいは「あ、それは編集者ではないからこそ持っている視点ですね。面白いですね」というのがあるはずで、それを膨らませてほしい。適切に改行してもらい、誤字脱字、ファクトチェックから適当な画像の選定をお願いしたい。もういっそこの記事もちょうどいいタイミングで公開しておいてもくれないか。で、タイトルはこれでいいのか?
ところで僕は、はてなというところで働いていた。そこでは編集はとともに、記事広告の販売から進行、そして一時期はブロガーに声をかけて、オウンドメディアに記事を書いてもらうまでのコミュニケーションを行うこともあった。
その経験を通して得た考え方やスキルは、なかなか他では得られない貴重なもので、多くが自分の礎になった。
中でも印象的なのは、読者のことを考えるということだった。こんなに前置きが長いのにそんなことかと。編集者の人からしたら、ごく当たり前のことだろう。だがこれが、僕には難しいことだった。
営業で獲ってきた記事広告案件の執筆を断られたことがある。その広告主の案件だと、どうやっても読者に嫌われる。目の前のお金も大事だが、何よりも媒体が信頼を失うのは一瞬だと。泣く泣くその案件は頭を下げて断った。代理店時代を経て受注とクライアント満足が全てだと思っていたので、衝撃的な体験だった。
それから数年間、ステマ問題や、デマ記事釣り記事の連発や、いくつものメディアが一瞬にして信頼を失うのを見てきた。僕は僕で、あらゆる記事の読者の反応を確認しながら、多くの記事案件のリリースに関わることになった。そうした経験を経て、ステマを断ったことや、読者のことを考えようといった僕の発言が、何本かの記事で取り上げてもらえるまでになった。元々が読者のことなんてわからなかったくらいの出自なので、少しむず痒い気分になった。
その他にもディレクションやスケジューリングだったり、多くの編集者、記者、ライターと会話したりと、編集の近くで学ぶことができた。
でもなによりも「読者のことを考える」というのは細胞が入れ替わるくらいの出来事だった。読者視点で考えた広告商品が結果的に独自性のあるものになったりもした。
はてなはもう卒業したが、そこで記事に関わってきたことは、本当に貴重な時間だった。届いた初稿が輝いて見えたこと(実際にそれは数万シェアされて数十万PVになった)、中々読みづらかった原稿が、編集の手によってとてもおもしろく読みやすいものに生まれ変わったこと、一つ一つの記事の裏側に一つ一つのドラマがあった。
そして文章で人の心を動かすことができると信じて、社内外でたくさんの言葉を書き続けた時期でもあった。僕は編集でもライターでもないけれど、読者のことを考えていた視点が、回りの編集やライターのみなさんにも受け入れてもらった理由だったのかもしれない。
せっかくの機会なので、本職ではない者としての気持ちを書きましたが、少しでも趣旨に合っていれば幸いです。
で、結局この記事のタイトルは、読者のことを考える的な方が良かったんじゃないかな。
子どもが欲しいとは思っていなかった
子どもが欲しいとは思っていなかった。
子どもなんかいたら、自由で気ままな日々なんて望めない。好きなように本を読んで映画を見て、ゲームして、バンドをやって、好きなものを食べて好きなところに住んで好きなように仕事がしたい。自分が誰かに受け入れられるとも思ってなかったし、別に一人でいいと思って生きていた。だから子ども、いやそもそも結婚自体が、僕には制約としか感じていなかった。
そんなことを考えていたのに、一転して今から約三年前に結婚し、すでに一歳半の娘がいる。そこに至るまでは長くなるので細かくは語らないが、端的に言うと、転職や震災といった経験を経て、ようやく僕には大切な両親や友達がいて、さらにはパートナーにも恵まれていたことに気づけた。一人で生きていくだなんてヒロイックな傲慢だと気づいたのだ。
娘が産まれるまでも大変で、例えばいざ産まれるという日、よりよって記録的な大雪が降り、あやうく産院に辿り着けなくなりそうだった。でもその産まれるまでのエピソードも割愛する。
大事なことをいくつも割愛してしまっている。でもそれよりここで書きたいのは、そんな傲慢だった人間にも父性が芽生えたという、価値観の変化についての話だ。
娘が産まれたばかりの頃、すでに可愛くてしょうがなかった。でももしかしたらペット的に可愛く思っていただけかもしれない。そんな僕が今感じているのが父性だとして、それが生まれたきっかけはあっただろうか。きっかけとなるドラマチックなエピソードは、多分ない。
ごく普通の日々に、娘を抱っこして散歩をしていたような時間が積み重なって、自然に芽生えたような気がしている。
例えば夜中の寝かしつけ。1歳になるまで、娘はたいてい3時間くらい眠ると、それだけでもう泣きながら起きてしまった。抱っこしてゆらゆら揺らしてやっと眠らせても、布団で寝かせると起きてしまう。奥さんが授乳すると大抵は眠るのだが、それでも眠られずに泣き続けることも度々あった。
そんな夜中は、抱っこ紐で抱っこをして、家の周りを散歩に出かけていた。家の近くにはちょっとした公園があり、緑も多くて静かなその公園を何周も歩いた。夜はしんとして、遠くで車が走る音、風で木の葉が揺れる音や虫の音、歩く時のジャリっとした音、それらしか聞こえない。
春になってもまだ夜は寒い。風邪をひかないように靴下を履かせたり上着を着させてから出掛ける。
生後数ヶ月の娘は、泣くと言っても大声で泣き喚くのではなく、とても弱々しく、ただ小さな声で、悲しい、辛いといったことを訴えかけるように泣く。眠れないのが悲しいだけでなく、お母さんから離れてしまうことも嫌で泣いている。
でも抱っこをしながら走って揺らしてあげたり、背中をさすったり、歌を歌ってあげると次第に泣き止んでくる。しばらくそうしているうちにいつの間にかスヤスヤと眠ってしまう。
僕は子供向けの歌をあまり知らず、エレファントカシマシの奴隷天国とか歌っても教育上よろしくないので、高校生の頃に流行っていたスピッツの曲ばかりを繰り返し歌っていた。眠ったとはいえすぐに家に戻ると、また起きて泣いてしまうので、背中をポンポンとたたきながら30分くらい散歩してから帰った。大変だとうんざりすることもあったけど、寝息の音があまりに安らかなので、まあいいかという気分になる。
昼間に抱っこして出かけたときは、できるだけ話しかけながら散歩するようにしていた。すぐに何を話したらいいか分からなくなるので、耳を澄ますと聞こえてくる、どこかで掃除機をかけているような生活の音や風の音、空を見上げた時の雲の形だとかの話をしてあげた。娘と散歩しなければ、それらの音も何もかも、そこにはあるのに気づかなかったものだ。
そうしているうちに、ただ泣くか何かをジッと見ているしかなかった娘も、だんだんと手を伸ばしてきて僕の顔をペチペチたたきながらニコニコするようになってきた。
奥さんもリフレッシュのために出かけることが増え、つまり僕一人で娘の面倒を見る機会も増えていった。そうして娘と過ごす時間が増えるにつれ、「赤ん坊ってなんて小さくて弱い生き物なんだろう」と思えてきた。
仕事に行くと、「今頃泣いていたりしないだろうか」なんて気にしてしまうようになってしまった。
その時、これが父性ってやつじゃないかと気づいた。
そうして今、産まれてから一年半が経った。今は赤ん坊というより幼児だ。
平日は毎日ご飯の支度をしたり、洗濯をしたり。土日は娘を連れてどこかに出かけたりしたらもうそれで終わり。
娘は今のところとても元気に育ってくれて、よく笑ってよく食べるし、よく僕らの手や足をつかんで引っ張ってくる。今は家族三人で過ごす時が一番楽しそうだ。もちろんまだまだよく泣く。最近も口内炎ができたと口を押さえて「たーい」と泣いている。そうするとできるだけ柔らかくて栄養があるご飯を作らなければいけない。考えることもやることも増える。
当然、独身時代のように、本を読んで映画を見て、ゲームして、バンドをして、好きなものを食べて好きなところに住んで好きなように仕事することはできなくなってしまった。
できなくなったことばかりだけど、自分がいつの間にか忘れてしまっていたものに気づくことが増えた。
娘と散歩していると、急にキャハハと笑い、僕らの手を振りきって歩いていくことがある。
どうしたのかとしゃがんで娘の目線に合わせてみると、大人の目線で上から見下ろすと全く何でもない芝生が大草原に見えたり、辺りに蝶々が飛んでいたり、小さな花がたくさん見つかったりする。
そういえば初めて娘が自分の力で歩いた時、震えながらも足を踏み出すたびに「どう?できたでしょ?」と言うかのように自慢げに僕らを見て、そしてその一歩一歩ごとに地球最初の発見をしたかのように嬉しそうな顔をしていた。僕にはなんでもない歩くということが、娘にはただの一歩でさえこれほど新鮮な体験なのか!
偉そうに育てているつもりが、なんてことはない、たくさんのことを教わっている。自分の自由は、ほとんどなくなった。でも娘が新しく体験する一瞬が、僕らにも貴重な一瞬になった。自由は差し出したけれど、もっと大きなものを手に入れた気分だ。
どれだけ身の回りに美しいものがあってどれだけ毎日が貴重なのか、30年経って思い出した。でも僕が忘れてしまったように、娘もいずれ忘れてしまうのだろう。それもしょうがない。それがおとなになることなのかもしれない。それでも笑ってくれた日々の積み重ねが、彼女の人生を作ってくれると願いたい。
そういえば娘の名前は、お腹の中にいるときに呼びかけていた名前をそのまま名付けた。
もし日本を離れて生きていくことがあっても、きっと呼ばれやすい名前だし、それがよいのではないかと思った。
※この記事は2015年8月頃、「ぼくらのクローゼット」というメディアに寄稿した記事です。メディアの閉鎖に伴い、管理者様に許諾を頂いて転載致しました。
娘が3歳になった
ブログに書くのが遅くなってしまったが、先々週、娘が3歳になった。その日は平日の真ん中で、ほぼ定時に会社を出てお祝いに帰った。たまたま来ていた義母も混じえて、家族でハッピーバースデイを歌いながらケーキを食べた。
娘はしばらく前から、3歳になることを楽しみにしていて「もうすぐ3歳なのー」と三本指を見せていた。それから、「今何歳?」と聞くと自慢げに「3歳!」「おねえちゃんだよ!」と指を立ててくる。
娘は元気に育っていて、元気どころかひょうきんが有り余っている。しょっちゅう踊っているか、変な顔をしているか、変な言葉を言っている。
幼児の頃、娘の僕への気持ちはお母さんの代わり、くらいだった気がする。しかし最近は僕と遊ぶことも楽しみにしてくれているんだな、と思うことがよくある。たまに保育園に迎えに行くと「ママがよかったー」と悲しそうな顔をするけれど。
まあそんな感じで、毎日みんな楽しくやっている。
娘が生まれてから、ふとしたことで自分の幼少時代の記憶の映像が蘇ってきて、ああこれは1歳頃の記憶だな、という瞬間がある。
これまで、自分に物心がついたのは3歳からだと思っていた。だから、娘もこれから起きることを、大人になるまで強く覚えているのかもしれない。楽しいことや悲しいことの思い出や、僕や奥さん、家族の姿。今のうちに、娘に誇らしく思われるような姿を目指していかなければならない。
2016年12月までの面白かった本10冊
ずっとこの半年間で読んで面白かった本を10冊選んでブログに書いている。結構溜まってきた。タイトルに一貫性がない。今回は2016年下半期。
今年読んで面白かった本10冊 - はてなの広告営業 mtakanoの日記(2010年)
今年読んだ本のマイベスト10 - はてなの広告営業 mtakanoの日記(2011年)
今年読んで面白かった本10冊(2012年) - はてなの広告営業 mtakanoの日記
今年読んで面白かった本10冊(2013年) - 言いたいことがなにもない
面白かった本10冊まとめ(2014年1月~6月まで) - 言いたいことがなにもない
面白かった本10冊まとめ(2014年7月~12月まで) - 言いたいことがなにもない
この半年読んで面白かった本10冊まとめ(2015年6月まで) - 言いたいことがなにもない
この半年読んで面白かった本10冊まとめ(2015年7~12月まで) - 言いたいことがなにもない
2016年6月までの面白かった本10冊 - 言いたいことがなにもない
1417年、その一冊が全てを変えた
この半年では、とにかくこの本が一番面白かったのではないか。ただ一冊の本、しかも聖書やコーランでもない、無名の本が全てを変えたという話。
それは、ギリシア時代の詩人、ルクレティウスという人が残した「物の本質について」という本だ。聞いたことがある人はあまりいないのではないか。世界は原子でできているといち早くギリシア時代に唱えたデモクリトスの影響を受けた詩人の本だ。
その本はやがて埋もれるものの、神や教会が中心であり、ローマの暗黒期である時代にポッジョというブックハンターがサルベージする。そこからこの本が読まれ始め、次第に「世界は、神が何もないところから作ったものではない、なぜならこの世界は有限なものでできあがっているからだ」と広まっていき、やがて人間中心主義であるルネサンスが起きたのだという。
この本で書かれている話自体も埋もれてしまったもので、最近の科学的検証によって当時ルネサンスの立役者たちが「物の本質について」を読んでいたことがわかった結果、判明したそうだ。
タイトルだけ読んで、それは言いすぎだろう、と半信半疑で手に取った。しかしとてつもないロマンのある話だ。情報が、人の心を動かし、やがて行動を促すものであることを、良くも悪くももっと自覚すべきなのだ。
- 作者: スティーヴングリーンブラット,Stephen Greenblatt,河野純治
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申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。
自身のコンサル体験談から、様々に開発されるメソッドを駆使しても結局コンサルは意味がない、と言ってしまう。まあそれは言い過ぎで、コンサルはうまく使いましょうということ。
なぜなら大抵ビジネスにおける問題は人であり、コミュニケーション不足が原因なのだ。ツールやメソッドを当てはめて戦略立案をしてみてもやった感でしかない。だから、顧客とコンサルが一緒にプロジェクトチームを作り、社内の人も参加し、声を聞き、一緒に取り組んでいく必要がある。当たり前といえば当たり前なんだけど、これはコンサル批判なのではなく組織をどうマネジメントするかという本だと理解した。
あとはよくある業績管理システムを一刀両断していて面白かった。数字目標をあてはめたら、数字が目的になってそれ以外のもの、それ以上のものが評価できないし、納得感もない。
インターネットの次に来るもの
これから世界が変わっていく。例えば、人工知能の発達は不可避だ。今起きている不可避の事象によって、世界がどう変わるかの具体例が書かれている。もちろnこの具体例が全て実現するかはわからないとは言え、現象としては不可避というのがおもしろい。
人工知能にしろVRにしろ、また技術に発展に寄って所有からSHAREにうつることなど、これから起こることを考えて、それにワクワクしながら生きていかなければいけない。
赤めだか
立川談春による、立川談志の思い出を中心とした自伝小説。笑いながら泣ける青春の話。文章がとてもうまい。師匠と弟子の交流、落語にかける思い、時代の潮流、臨場感を持って伝わってくる。
反知性主義 -アメリカが生んだ「熱病」の正体-
反知性主義という言葉もブームになり、この言葉だけ見ると知性を軽蔑することであるととらえてしまう。そもそも反知性主義とはアメリカで生まれたもので、知性と権力の結びつきへの反感なのだ。
またこの本はアメリカのキリスト教史でもある。アメリカで次第に権威と結びついた退屈なキリスト教に対して、正しくキリスト教を教わっていない人たちが、大衆受けするようにキリスト教を伝導していったことが始まりだ(お金を儲けることを目的とした人も多かった)。
そう考えると、権威を盲信せず、自分の頭で判断した人たちの行動ともいえる。実際、アメリカでは反知性主義は否定的な言葉ではなさそうだ。アメリカという国を理解する上でも大変面白い。
総理
16年安倍総理を追った本。日本は右傾化している気がしていて、自分はそのために安倍政権を全面支持できないが(というか子供なのできっとどんな政権であろうといつまでも支持できなさそうだが。。。)、ただやはり総理ともなれば国のことをとにかく真剣に考えていることがわかる。
政治家がどのような仕事をしているのか、もちろん断片的なニュースで追うことはできるものの、こうやってまとめて読むと、その姿が捉えやすい。
まあでもこの本を読むと、アンチ安倍、アンチ麻生派も彼らのことを好きになってしまうのではないか。。。というくらいに日本を思う熱い人達として書かれている。すごく面白い本なんだけど、その面白さを表明しづらい本だ。 。。
USJのジェットコースターはなぜ後ろ向きに走ったか?
USJの元CMO森岡さんの本は結局全部読んだ。この本は最初の一冊だが、他2冊がマーケッターに向けた森岡さんの講義だとすると、これはUSJがV字回復するまでの物語である。 だからこれはマーケティングメソッドが書かれているけれど、V字回復までの手に汗握るワクワクする物語として興奮して読んでしまった。
USJのジェットコースターはなぜ後ろ向きに走ったのか? (角川文庫)
- 作者: 森岡毅
- 出版社/メーカー: KADOKAWA / 角川書店
- 発売日: 2016/04/23
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ワーク・シフト
自分が日々働いている中でも、自分にしろ世間にしろ、働き方が変わりつつあることを感じる。少し前に出た本だが、この本で書かれていることを実感できつつある分、さらに興味深く読めた。
<第一のシフト>は、一つの企業の中でしか通用しない技能ではなく、高度な専門技能を磨き、自分を差別化するために「自分ブランド」を築くこと。<第二のシフト>は頼りになる少人数の盟友グループと、イノベーションの源泉となるバラエティに富んだネットワーク、そしてストレスを和らげるための打算のない友人関係という、三種類のネットワークをはぐぐむこと。<第三のシフト>は、大量消費主義を脱却し、家庭や趣味、社会貢献などの面で充実した創造的経験をすることを重んじる生き方に転換すること。
第三のシフトはここ数年の流れであった物質よりも心を重視した優しい社会の到来が近づいていることをしめしているようにも感じていて、これを目指していきたいものの、ここ半年で起きている世界的な分断が気になっている。
ワーク・シフト ─孤独と貧困から自由になる働き方の未来図<2025>
- 作者: リンダグラットン
- 出版社/メーカー: プレジデント社
- 発売日: 2012/09/28
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全裸監督 村西とおる伝
村西とおる監督の、とてつもない人生の話。とにかくためにはならなくておもしろい。日本のある時代の息吹、熱狂、それを駆け抜けていった人生の熱が伝わってくる。役には立たないけど最高。というか役に立たせることが目的で本なんか読んでない。
人事の超プロが明かす評価基準
評価の本質とは、影響力であるという。そう考えると、自分の仕事がどうすれば評価されるのかがわかる。さらには著者が自分の経験を元に構築した、日本の企業文化にあった普遍的な「45のコンピテンシー」を提示している。
自分のステージが上がった時に、自分自身とともに評価の仕方などを振り返るために読み返したい本だと思った。
今年の後半は、考えることがいろいろあって本を開いてもなかなか集中できず、頭に入ってこなくなってしまった。来年は改めて、積極的に本に向き合い直したい。
プラネタリウムで
奥さんに外せない用事があり、朝から不在にしていたので、娘とどこかに遊びに行こうとプラネタリウムに出かけた。
娘が起きたときにもう奥さんはいなかったので、「ママ探しに行く!」と泣きながら玄関まで走っていった。
テレビをつけたらテレビの楽しそうな声に釣られてリビングまで戻ってきてくれたので、Eテレの力は偉大。
プラネタリウムに行くのは二回目で、どちらも僕と娘の二人だけで出かけた。初めて行った後は、しばらくの間「昨日パパとお星様みたの」と言っていた。補足すると、二歳の娘は今日ではない過去のことは、全て昨日と言ってしまう。
それから数ヶ月経って二回目である今回、星や月をときに指差しながらじーっと観察していた。していたようだった。僕は暗くて静かになると自然と寝てしまうので、最初の頃しか覚えていない。たまに「ちゃんと見てよ~」と叩き起こされた。
プラネタリウムを見たあとは、小高い丘の上にあるアスレチックまで登っていき、そこで1時間半くらいすべり台を滑っていた。ハマるとずっと同じことをする傾向がある。この前は2時間くらいずっと砂場で穴を掘っていた。すべり台のほうが動きがあるので、見ているこちらもまだ飽きない。多少は。
いろんなものを見せてあげたくて、動物園や水族館などに連れて行くようになった。なかでもプラネタリウムというのはまた違った特別感がある。自分がプラネタリウムに初めて行ったのは、多分小学生の遠足ではなかったか。天地明察の主人公、渋川春海の物語とともに星を見た記憶がある。なんとなくキレイだった記憶と、特別な場所に出かけた記憶はある。
もし死ぬときに思い出すとしたら、プラネタリウムの椅子に座り、これから何が始まるのかと興味深そうな目をして待つ娘の姿だ。初めてのものを見る目はとてもきれい。
おすすめの電動ミルと、新鮮な珈琲豆が買えるお店を紹介してみる
コーヒーが好きだとか言いながら、粉に挽いてもらった珈琲豆を購入していた。本当のコーヒー好きなら、飲むその時に豆から挽くべきと言われる。それなのに粉で購入していたその理由は、一度手動のミルを購入してはみたものの、どうしても美味しく挽くことができなかったからだ。その上、ミルの掃除も面倒だし、少量しか挽くことができない。
ある日ふと電動ミルを買ってみようと思い、色々調べた結果ラッセルホブスのコーヒーグラインダー7660JPを購入した。
なぜラッセルホブスのコーヒーグラインダーを選んだかといえば、しっかりと刃がついているので均一にカットできる(電動ミルによってはカットするのではなくぶつけて砕くので均一にならない)、10秒位で挽くことができる、取り外して洗うことができる、そして見た目だ。それもあって他の電動ミルより少し高めではあったが、結果的にかなり満足している。ちなみに見た目は奥さんの外せないこだわりだった。
結論、買ってすごく満足している。これを買ったおかげで、朝に挽いて淹れたばかりのコーヒーを持って出かけることができるようになった。ステンレスマグに数杯分淹れておけば、いつでも新鮮で熱いコーヒーを飲んでリラックスできる。
そのうち、だんだん珈琲豆にもこだわるようになってきた。外に出る機会があれば、近くに自家焙煎の喫茶店、珈琲豆販売店がないかを探して買って帰るようになった。わかってきたのが、焙煎したばかりの新鮮な珈琲豆は美味しいということだ。何より、コーヒーを淹れた時の様子がぜんぜん違う。
実際に珈琲豆を挽いている様子
では新鮮な珈琲豆だとどう違うのか?
ラッセルホブスのミルで挽いて細かくした状態がこれ。
珈琲は、まず最初に少量のお湯を淹れて30秒ほど蒸らすことが大事だ。
これまでは、蒸らすことの必要性がわかっていなかった。気分によってはドバドバとお湯を入れて作ってさえいた。しかし新鮮な豆を使うと、蒸らしの状態がぜんぜん違う。お湯を入れると、みるみるうちに膨らんでくる。膨らみすぎて泡がてっぺんから破裂する。珈琲豆が生きているかのようだ。
新鮮な珈琲が必ず美味しいというわけではなく、熟成させたほうが美味しいという人もいるが、僕のような気楽に淹れるくらいの素人だと、新鮮な珈琲豆の方が大抵美味いのだ。
新鮮な珈琲豆を買える店もちゃんと探さなければいけない。そして新鮮なだけでなく、しっかりとハンドピック、焙煎の過程で割れてしまった豆を丁寧に一つ一つ取り除いて販売してくれるようなお店の豆でないと、美味しいコーヒーを飲むことはできない。
ありがたいことに、通販でも美味しい豆は買える。
通販で美味しい珈琲豆を購入できるお店
一店舗目は、「ウタウコーヒーオドルきんぎょ」という店。ここの珈琲豆は、頼んでから焙煎してくれる様子で、届くのに少し時間がかかる。でも僕が頼んだときは、「今焙煎したところです」といった丁寧な過程のメールが届き、わくわくしながら待つことができた。その時のオリジンがそうだったからかもしれないが、とても優しい自然な味がした。
二店舗目は土居珈琲。コーヒーが好きな人の間では有名な店。サイトを見てみると、コーヒーにこだわり抜いた店主の顔写真が出てきて、コーヒーへの強いこだわりを感じる。3種くらいの豆を頼んだが、どれも外さなかった。ただ少しお高めではある。
三店舗目は、一番好きな焙煎工房豆太。ここの珈琲豆は、蒸らしのときの盛り上がり方がすごい。そしてとても澄んだ味がする。本来の相場価格よりも安く販売しているのでは?というくらい美味しい。
もちろん、珈琲豆によって全然味が違う。酸味が強い豆、苦味が強い豆、香りが強い豆、フルーティな豆やそれらのバランスが取れた豆。自分の好みとの相性があるとはいえ、それでも豆の新鮮さは淹れてみればわかる。
ちなみに、電動ミルだけではなくコーヒードリップポットやハンドドリップ、さらには泡立てたカフェラテが飲みたい場合はクリーマーまで揃える必要がある。
- ジャンル: 家電・AV・カメラ > キッチン家電 > コーヒーメーカー > コーヒーミル
- ショップ: ビックカメラ楽天市場店
- 価格: 1,630円
それでもカフェで頻繁にコーヒーをテイクアウトするのに比べれば断然安上がりだし、何より段違いに美味しい。某チェーン店のコーヒーをもう美味しいとは思えなくなってしまった。
ちなみに一番あると便利なのは、すぐにお湯が出てくるウォーターサーバーだ。お湯を沸かす手間と面倒さがなくなるし、お湯の分量を間違えて沸かしすぎることもない。ウォーターサーバー、すぐに粉ミルクが作られるので赤ちゃんがいると欠かせないし、味噌汁やポトフといったスープ料理の味が劇的に変わる。まあこれは別の話。
こうやって、朝に新鮮な珈琲を挽いて、その香りを嗅いで、珈琲が生きているかのように膨らんでいく様子を見ていると気分が落ち着いてくる。朝食の用意は僕の仕事で、娘のご飯を作ったりと慌ただしいながらも、それでも心を落ち着かせてくれる。朝に一日の楽しみができるのはいい。