言いたいことがなにもない

プライベートな日記です

子どもが欲しいとは思っていなかった

子どもが欲しいとは思っていなかった。

子どもなんかいたら、自由で気ままな日々なんて望めない。好きなように本を読んで映画を見て、ゲームして、バンドをやって、好きなものを食べて好きなところに住んで好きなように仕事がしたい。自分が誰かに受け入れられるとも思ってなかったし、別に一人でいいと思って生きていた。だから子ども、いやそもそも結婚自体が、僕には制約としか感じていなかった。

 

そんなことを考えていたのに、一転して今から約三年前に結婚し、すでに一歳半の娘がいる。そこに至るまでは長くなるので細かくは語らないが、端的に言うと、転職や震災といった経験を経て、ようやく僕には大切な両親や友達がいて、さらにはパートナーにも恵まれていたことに気づけた。一人で生きていくだなんてヒロイックな傲慢だと気づいたのだ。

娘が産まれるまでも大変で、例えばいざ産まれるという日、よりよって記録的な大雪が降り、あやうく産院に辿り着けなくなりそうだった。でもその産まれるまでのエピソードも割愛する。

 

 

大事なことをいくつも割愛してしまっている。でもそれよりここで書きたいのは、そんな傲慢だった人間にも父性が芽生えたという、価値観の変化についての話だ。

 

娘が産まれたばかりの頃、すでに可愛くてしょうがなかった。でももしかしたらペット的に可愛く思っていただけかもしれない。そんな僕が今感じているのが父性だとして、それが生まれたきっかけはあっただろうか。きっかけとなるドラマチックなエピソードは、多分ない。
ごく普通の日々に、娘を抱っこして散歩をしていたような時間が積み重なって、自然に芽生えたような気がしている。

 

例えば夜中の寝かしつけ。1歳になるまで、娘はたいてい3時間くらい眠ると、それだけでもう泣きながら起きてしまった。抱っこしてゆらゆら揺らしてやっと眠らせても、布団で寝かせると起きてしまう。奥さんが授乳すると大抵は眠るのだが、それでも眠られずに泣き続けることも度々あった。


そんな夜中は、抱っこ紐で抱っこをして、家の周りを散歩に出かけていた。家の近くにはちょっとした公園があり、緑も多くて静かなその公園を何周も歩いた。夜はしんとして、遠くで車が走る音、風で木の葉が揺れる音や虫の音、歩く時のジャリっとした音、それらしか聞こえない。

春になってもまだ夜は寒い。風邪をひかないように靴下を履かせたり上着を着させてから出掛ける。


生後数ヶ月の娘は、泣くと言っても大声で泣き喚くのではなく、とても弱々しく、ただ小さな声で、悲しい、辛いといったことを訴えかけるように泣く。眠れないのが悲しいだけでなく、お母さんから離れてしまうことも嫌で泣いている。

でも抱っこをしながら走って揺らしてあげたり、背中をさすったり、歌を歌ってあげると次第に泣き止んでくる。しばらくそうしているうちにいつの間にかスヤスヤと眠ってしまう。


僕は子供向けの歌をあまり知らず、エレファントカシマシの奴隷天国とか歌っても教育上よろしくないので、高校生の頃に流行っていたスピッツの曲ばかりを繰り返し歌っていた。眠ったとはいえすぐに家に戻ると、また起きて泣いてしまうので、背中をポンポンとたたきながら30分くらい散歩してから帰った。大変だとうんざりすることもあったけど、寝息の音があまりに安らかなので、まあいいかという気分になる。

 

昼間に抱っこして出かけたときは、できるだけ話しかけながら散歩するようにしていた。すぐに何を話したらいいか分からなくなるので、耳を澄ますと聞こえてくる、どこかで掃除機をかけているような生活の音や風の音、空を見上げた時の雲の形だとかの話をしてあげた。娘と散歩しなければ、それらの音も何もかも、そこにはあるのに気づかなかったものだ。
そうしているうちに、ただ泣くか何かをジッと見ているしかなかった娘も、だんだんと手を伸ばしてきて僕の顔をペチペチたたきながらニコニコするようになってきた。

 

奥さんもリフレッシュのために出かけることが増え、つまり僕一人で娘の面倒を見る機会も増えていった。そうして娘と過ごす時間が増えるにつれ、「赤ん坊ってなんて小さくて弱い生き物なんだろう」と思えてきた。
仕事に行くと、「今頃泣いていたりしないだろうか」なんて気にしてしまうようになってしまった。

その時、これが父性ってやつじゃないかと気づいた。

 

 

 

そうして今、産まれてから一年半が経った。今は赤ん坊というより幼児だ。
平日は毎日ご飯の支度をしたり、洗濯をしたり。土日は娘を連れてどこかに出かけたりしたらもうそれで終わり。

娘は今のところとても元気に育ってくれて、よく笑ってよく食べるし、よく僕らの手や足をつかんで引っ張ってくる。今は家族三人で過ごす時が一番楽しそうだ。もちろんまだまだよく泣く。最近も口内炎ができたと口を押さえて「たーい」と泣いている。そうするとできるだけ柔らかくて栄養があるご飯を作らなければいけない。考えることもやることも増える。

 

 

当然、独身時代のように、本を読んで映画を見て、ゲームして、バンドをして、好きなものを食べて好きなところに住んで好きなように仕事することはできなくなってしまった。

 

 

できなくなったことばかりだけど、自分がいつの間にか忘れてしまっていたものに気づくことが増えた。

 

娘と散歩していると、急にキャハハと笑い、僕らの手を振りきって歩いていくことがある。
どうしたのかとしゃがんで娘の目線に合わせてみると、大人の目線で上から見下ろすと全く何でもない芝生が大草原に見えたり、辺りに蝶々が飛んでいたり、小さな花がたくさん見つかったりする。

そういえば初めて娘が自分の力で歩いた時、震えながらも足を踏み出すたびに「どう?できたでしょ?」と言うかのように自慢げに僕らを見て、そしてその一歩一歩ごとに地球最初の発見をしたかのように嬉しそうな顔をしていた。僕にはなんでもない歩くということが、娘にはただの一歩でさえこれほど新鮮な体験なのか!

 

偉そうに育てているつもりが、なんてことはない、たくさんのことを教わっている。自分の自由は、ほとんどなくなった。でも娘が新しく体験する一瞬が、僕らにも貴重な一瞬になった。自由は差し出したけれど、もっと大きなものを手に入れた気分だ。

 

どれだけ身の回りに美しいものがあってどれだけ毎日が貴重なのか、30年経って思い出した。でも僕が忘れてしまったように、娘もいずれ忘れてしまうのだろう。それもしょうがない。それがおとなになることなのかもしれない。それでも笑ってくれた日々の積み重ねが、彼女の人生を作ってくれると願いたい。

そういえば娘の名前は、お腹の中にいるときに呼びかけていた名前をそのまま名付けた。

もし日本を離れて生きていくことがあっても、きっと呼ばれやすい名前だし、それがよいのではないかと思った。

 

※この記事は2015年8月頃、「ぼくらのクローゼット」というメディアに寄稿した記事です。メディアの閉鎖に伴い、管理者様に許諾を頂いて転載致しました。

娘が3歳になった

ブログに書くのが遅くなってしまったが、先々週、娘が3歳になった。その日は平日の真ん中で、ほぼ定時に会社を出てお祝いに帰った。たまたま来ていた義母も混じえて、家族でハッピーバースデイを歌いながらケーキを食べた。

娘はしばらく前から、3歳になることを楽しみにしていて「もうすぐ3歳なのー」と三本指を見せていた。それから、「今何歳?」と聞くと自慢げに「3歳!」「おねえちゃんだよ!」と指を立ててくる。

 

娘は元気に育っていて、元気どころかひょうきんが有り余っている。しょっちゅう踊っているか、変な顔をしているか、変な言葉を言っている。

幼児の頃、娘の僕への気持ちはお母さんの代わり、くらいだった気がする。しかし最近は僕と遊ぶことも楽しみにしてくれているんだな、と思うことがよくある。たまに保育園に迎えに行くと「ママがよかったー」と悲しそうな顔をするけれど。

まあそんな感じで、毎日みんな楽しくやっている。

 

娘が生まれてから、ふとしたことで自分の幼少時代の記憶の映像が蘇ってきて、ああこれは1歳頃の記憶だな、という瞬間がある。

これまで、自分に物心がついたのは3歳からだと思っていた。だから、娘もこれから起きることを、大人になるまで強く覚えているのかもしれない。楽しいことや悲しいことの思い出や、僕や奥さん、家族の姿。今のうちに、娘に誇らしく思われるような姿を目指していかなければならない。

2016年12月までの面白かった本10冊

ずっとこの半年間で読んで面白かった本を10冊選んでブログに書いている。結構溜まってきた。タイトルに一貫性がない。今回は2016年下半期。

今年読んで面白かった本10冊 - はてなの広告営業 mtakanoの日記(2010年)

今年読んだ本のマイベスト10 - はてなの広告営業 mtakanoの日記(2011年)

今年読んで面白かった本10冊(2012年) - はてなの広告営業 mtakanoの日記

今年読んで面白かった本10冊(2013年) - 言いたいことがなにもない

面白かった本10冊まとめ(2014年1月~6月まで) - 言いたいことがなにもない

面白かった本10冊まとめ(2014年7月~12月まで) - 言いたいことがなにもない

この半年読んで面白かった本10冊まとめ(2015年6月まで) - 言いたいことがなにもない

この半年読んで面白かった本10冊まとめ(2015年7~12月まで) - 言いたいことがなにもない

2016年6月までの面白かった本10冊 - 言いたいことがなにもない

 

1417年、その一冊が全てを変えた

この半年では、とにかくこの本が一番面白かったのではないか。ただ一冊の本、しかも聖書やコーランでもない、無名の本が全てを変えたという話。

それは、ギリシア時代の詩人、ルクレティウスという人が残した「物の本質について」という本だ。聞いたことがある人はあまりいないのではないか。世界は原子でできているといち早くギリシア時代に唱えたデモクリトスの影響を受けた詩人の本だ。

その本はやがて埋もれるものの、神や教会が中心であり、ローマの暗黒期である時代にポッジョというブックハンターがサルベージする。そこからこの本が読まれ始め、次第に「世界は、神が何もないところから作ったものではない、なぜならこの世界は有限なものでできあがっているからだ」と広まっていき、やがて人間中心主義であるルネサンスが起きたのだという。

この本で書かれている話自体も埋もれてしまったもので、最近の科学的検証によって当時ルネサンスの立役者たちが「物の本質について」を読んでいたことがわかった結果、判明したそうだ。

タイトルだけ読んで、それは言いすぎだろう、と半信半疑で手に取った。しかしとてつもないロマンのある話だ。情報が、人の心を動かし、やがて行動を促すものであることを、良くも悪くももっと自覚すべきなのだ。

 

一四一七年、その一冊がすべてを変えた

一四一七年、その一冊がすべてを変えた

  • 作者: スティーヴングリーンブラット,Stephen Greenblatt,河野純治
  • 出版社/メーカー: 柏書房
  • 発売日: 2012/11
  • メディア: 単行本
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申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。

自身のコンサル体験談から、様々に開発されるメソッドを駆使しても結局コンサルは意味がない、と言ってしまう。まあそれは言い過ぎで、コンサルはうまく使いましょうということ。

なぜなら大抵ビジネスにおける問題は人であり、コミュニケーション不足が原因なのだ。ツールやメソッドを当てはめて戦略立案をしてみてもやった感でしかない。だから、顧客とコンサルが一緒にプロジェクトチームを作り、社内の人も参加し、声を聞き、一緒に取り組んでいく必要がある。当たり前といえば当たり前なんだけど、これはコンサル批判なのではなく組織をどうマネジメントするかという本だと理解した。

あとはよくある業績管理システムを一刀両断していて面白かった。数字目標をあてはめたら、数字が目的になってそれ以外のもの、それ以上のものが評価できないし、納得感もない。

 

申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。

申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。

 

 

インターネットの次に来るもの

これから世界が変わっていく。例えば、人工知能の発達は不可避だ。今起きている不可避の事象によって、世界がどう変わるかの具体例が書かれている。もちろnこの具体例が全て実現するかはわからないとは言え、現象としては不可避というのがおもしろい。

人工知能にしろVRにしろ、また技術に発展に寄って所有からSHAREにうつることなど、これから起こることを考えて、それにワクワクしながら生きていかなければいけない。

 

〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則

〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則

 

 

赤めだか

立川談春による、立川談志の思い出を中心とした自伝小説。笑いながら泣ける青春の話。文章がとてもうまい。師匠と弟子の交流、落語にかける思い、時代の潮流、臨場感を持って伝わってくる。

 

赤めだか (扶桑社BOOKS文庫)

赤めだか (扶桑社BOOKS文庫)

 

 

反知性主義 -アメリカが生んだ「熱病」の正体-

反知性主義という言葉もブームになり、この言葉だけ見ると知性を軽蔑することであるととらえてしまう。そもそも反知性主義とはアメリカで生まれたもので、知性と権力の結びつきへの反感なのだ。

またこの本はアメリカのキリスト教史でもある。アメリカで次第に権威と結びついた退屈なキリスト教に対して、正しくキリスト教を教わっていない人たちが、大衆受けするようにキリスト教を伝導していったことが始まりだ(お金を儲けることを目的とした人も多かった)。

そう考えると、権威を盲信せず、自分の頭で判断した人たちの行動ともいえる。実際、アメリカでは反知性主義は否定的な言葉ではなさそうだ。アメリカという国を理解する上でも大変面白い。

 

反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体―(新潮選書)

反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体―(新潮選書)

 

 

総理

16年安倍総理を追った本。日本は右傾化している気がしていて、自分はそのために安倍政権を全面支持できないが(というか子供なのできっとどんな政権であろうといつまでも支持できなさそうだが。。。)、ただやはり総理ともなれば国のことをとにかく真剣に考えていることがわかる。

政治家がどのような仕事をしているのか、もちろん断片的なニュースで追うことはできるものの、こうやってまとめて読むと、その姿が捉えやすい。

まあでもこの本を読むと、アンチ安倍、アンチ麻生派も彼らのことを好きになってしまうのではないか。。。というくらいに日本を思う熱い人達として書かれている。すごく面白い本なんだけど、その面白さを表明しづらい本だ。 。。

 

総理 (幻冬舎単行本)

総理 (幻冬舎単行本)

 
USJのジェットコースターはなぜ後ろ向きに走ったか?

USJの元CMO森岡さんの本は結局全部読んだ。この本は最初の一冊だが、他2冊がマーケッターに向けた森岡さんの講義だとすると、これはUSJがV字回復するまでの物語である。 だからこれはマーケティングメソッドが書かれているけれど、V字回復までの手に汗握るワクワクする物語として興奮して読んでしまった。 

 

ワーク・シフト

自分が日々働いている中でも、自分にしろ世間にしろ、働き方が変わりつつあることを感じる。少し前に出た本だが、この本で書かれていることを実感できつつある分、さらに興味深く読めた。

<第一のシフト>は、一つの企業の中でしか通用しない技能ではなく、高度な専門技能を磨き、自分を差別化するために「自分ブランド」を築くこと。<第二のシフト>は頼りになる少人数の盟友グループと、イノベーションの源泉となるバラエティに富んだネットワーク、そしてストレスを和らげるための打算のない友人関係という、三種類のネットワークをはぐぐむこと。<第三のシフト>は、大量消費主義を脱却し、家庭や趣味、社会貢献などの面で充実した創造的経験をすることを重んじる生き方に転換すること。 

第三のシフトはここ数年の流れであった物質よりも心を重視した優しい社会の到来が近づいていることをしめしているようにも感じていて、これを目指していきたいものの、ここ半年で起きている世界的な分断が気になっている。

 

ワーク・シフト ─孤独と貧困から自由になる働き方の未来図<2025>

ワーク・シフト ─孤独と貧困から自由になる働き方の未来図<2025>

 

 

全裸監督 村西とおる

村西とおる監督の、とてつもない人生の話。とにかくためにはならなくておもしろい。日本のある時代の息吹、熱狂、それを駆け抜けていった人生の熱が伝わってくる。役には立たないけど最高。というか役に立たせることが目的で本なんか読んでない。 

 

全裸監督 村西とおる伝

全裸監督 村西とおる伝

 
人事の超プロが明かす評価基準

評価の本質とは、影響力であるという。そう考えると、自分の仕事がどうすれば評価されるのかがわかる。さらには著者が自分の経験を元に構築した、日本の企業文化にあった普遍的な「45のコンピテンシー」を提示している。

自分のステージが上がった時に、自分自身とともに評価の仕方などを振り返るために読み返したい本だと思った。

 

人事の超プロが明かす評価基準

人事の超プロが明かす評価基準

 

 

今年の後半は、考えることがいろいろあって本を開いてもなかなか集中できず、頭に入ってこなくなってしまった。来年は改めて、積極的に本に向き合い直したい。

プラネタリウムで

奥さんに外せない用事があり、朝から不在にしていたので、娘とどこかに遊びに行こうとプラネタリウムに出かけた。

 

娘が起きたときにもう奥さんはいなかったので、「ママ探しに行く!」と泣きながら玄関まで走っていった。

テレビをつけたらテレビの楽しそうな声に釣られてリビングまで戻ってきてくれたので、Eテレの力は偉大。

 

プラネタリウムに行くのは二回目で、どちらも僕と娘の二人だけで出かけた。初めて行った後は、しばらくの間「昨日パパとお星様みたの」と言っていた。補足すると、二歳の娘は今日ではない過去のことは、全て昨日と言ってしまう。

 

それから数ヶ月経って二回目である今回、星や月をときに指差しながらじーっと観察していた。していたようだった。僕は暗くて静かになると自然と寝てしまうので、最初の頃しか覚えていない。たまに「ちゃんと見てよ~」と叩き起こされた。

プラネタリウムを見たあとは、小高い丘の上にあるアスレチックまで登っていき、そこで1時間半くらいすべり台を滑っていた。ハマるとずっと同じことをする傾向がある。この前は2時間くらいずっと砂場で穴を掘っていた。すべり台のほうが動きがあるので、見ているこちらもまだ飽きない。多少は。

 

いろんなものを見せてあげたくて、動物園や水族館などに連れて行くようになった。なかでもプラネタリウムというのはまた違った特別感がある。自分がプラネタリウムに初めて行ったのは、多分小学生の遠足ではなかったか。天地明察の主人公、渋川春海の物語とともに星を見た記憶がある。なんとなくキレイだった記憶と、特別な場所に出かけた記憶はある。

 

もし死ぬときに思い出すとしたら、プラネタリウムの椅子に座り、これから何が始まるのかと興味深そうな目をして待つ娘の姿だ。初めてのものを見る目はとてもきれい。

おすすめの電動ミルと、新鮮な珈琲豆が買えるお店を紹介してみる

コーヒーが好きだとか言いながら、粉に挽いてもらった珈琲豆を購入していた。本当のコーヒー好きなら、飲むその時に豆から挽くべきと言われる。それなのに粉で購入していたその理由は、一度手動のミルを購入してはみたものの、どうしても美味しく挽くことができなかったからだ。その上、ミルの掃除も面倒だし、少量しか挽くことができない。

 

ある日ふと電動ミルを買ってみようと思い、色々調べた結果ラッセルホブスのコーヒーグラインダー7660JPを購入した。

なぜラッセルホブスのコーヒーグラインダーを選んだかといえば、しっかりと刃がついているので均一にカットできる(電動ミルによってはカットするのではなくぶつけて砕くので均一にならない)、10秒位で挽くことができる、取り外して洗うことができる、そして見た目だ。それもあって他の電動ミルより少し高めではあったが、結果的にかなり満足している。ちなみに見た目は奥さんの外せないこだわりだった。

結論、買ってすごく満足している。これを買ったおかげで、朝に挽いて淹れたばかりのコーヒーを持って出かけることができるようになった。ステンレスマグに数杯分淹れておけば、いつでも新鮮で熱いコーヒーを飲んでリラックスできる。

 

そのうち、だんだん珈琲豆にもこだわるようになってきた。外に出る機会があれば、近くに自家焙煎の喫茶店、珈琲豆販売店がないかを探して買って帰るようになった。わかってきたのが、焙煎したばかりの新鮮な珈琲豆は美味しいということだ。何より、コーヒーを淹れた時の様子がぜんぜん違う。

 

実際に珈琲豆を挽いている様子

 

では新鮮な珈琲豆だとどう違うのか?

ラッセルホブスのミルで挽いて細かくした状態がこれ。


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珈琲は、まず最初に少量のお湯を淹れて30秒ほど蒸らすことが大事だ。

これまでは、蒸らすことの必要性がわかっていなかった。気分によってはドバドバとお湯を入れて作ってさえいた。しかし新鮮な豆を使うと、蒸らしの状態がぜんぜん違う。お湯を入れると、みるみるうちに膨らんでくる。膨らみすぎて泡がてっぺんから破裂する。珈琲豆が生きているかのようだ。



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新鮮な珈琲が必ず美味しいというわけではなく、熟成させたほうが美味しいという人もいるが、僕のような気楽に淹れるくらいの素人だと、新鮮な珈琲豆の方が大抵美味いのだ。

 

新鮮な珈琲豆を買える店もちゃんと探さなければいけない。そして新鮮なだけでなく、しっかりとハンドピック、焙煎の過程で割れてしまった豆を丁寧に一つ一つ取り除いて販売してくれるようなお店の豆でないと、美味しいコーヒーを飲むことはできない。

ありがたいことに、通販でも美味しい豆は買える。

 

通販で美味しい珈琲豆を購入できるお店

 

一店舗目は、「ウタウコーヒーオドルきんぎょ」という店。ここの珈琲豆は、頼んでから焙煎してくれる様子で、届くのに少し時間がかかる。でも僕が頼んだときは、「今焙煎したところです」といった丁寧な過程のメールが届き、わくわくしながら待つことができた。その時のオリジンがそうだったからかもしれないが、とても優しい自然な味がした。

二店舗目は土居珈琲。コーヒーが好きな人の間では有名な店。サイトを見てみると、コーヒーにこだわり抜いた店主の顔写真が出てきて、コーヒーへの強いこだわりを感じる。3種くらいの豆を頼んだが、どれも外さなかった。ただ少しお高めではある。

三店舗目は、一番好きな焙煎工房豆太。ここの珈琲豆は、蒸らしのときの盛り上がり方がすごい。そしてとても澄んだ味がする。本来の相場価格よりも安く販売しているのでは?というくらい美味しい。 

自家焙煎コーヒー豆販売 〜豆太オンライン〜

 

もちろん、珈琲豆によって全然味が違う。酸味が強い豆、苦味が強い豆、香りが強い豆、フルーティな豆やそれらのバランスが取れた豆。自分の好みとの相性があるとはいえ、それでも豆の新鮮さは淹れてみればわかる。 

ちなみに、電動ミルだけではなくコーヒードリップポットやハンドドリップ、さらには泡立てたカフェラテが飲みたい場合はクリーマーまで揃える必要がある。

それでもカフェで頻繁にコーヒーをテイクアウトするのに比べれば断然安上がりだし、何より段違いに美味しい。某チェーン店のコーヒーをもう美味しいとは思えなくなってしまった。

ちなみに一番あると便利なのは、すぐにお湯が出てくるウォーターサーバーだ。お湯を沸かす手間と面倒さがなくなるし、お湯の分量を間違えて沸かしすぎることもない。ウォーターサーバー、すぐに粉ミルクが作られるので赤ちゃんがいると欠かせないし、味噌汁やポトフといったスープ料理の味が劇的に変わる。まあこれは別の話。

 

こうやって、朝に新鮮な珈琲を挽いて、その香りを嗅いで、珈琲が生きているかのように膨らんでいく様子を見ていると気分が落ち着いてくる。朝食の用意は僕の仕事で、娘のご飯を作ったりと慌ただしいながらも、それでも心を落ち着かせてくれる。朝に一日の楽しみができるのはいい。 

 

それどこ大賞「買い物」
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2016年6月までの面白かった本10冊

ずっとこの半年間で読んで面白かった本を10冊選んでブログに書いている。結構溜まってきた。

今年読んで面白かった本10冊 - はてなの広告営業 mtakanoの日記(2010年)

 

忘れられた巨人

楽しみにしていたカズオ・イシグロの新刊。いつものカズオイシグロに比べると、世界観やストーリーテリングが多く、文章や情景描写の美しさに没頭するようなところは少なかった気がする。やはりファンタジー形式の作品だからそうなったのだろう。


だが、この寓話によって気づかされるのは、現実の我々の世界の残酷さ、どうにもならなさだった。主人公がたどり着いた対立の構図は、絶望的だ。カズオ・イシグロは世間的にも重要な作家になったので、彼が表現をすることは、すなわち世の中への責任を引き受けるということになってしまったのかもしれない。

その上でさらにその先にある最後のシーン。悲しいけれど、この圧倒的な美しさはカズオイシグロ随一だった。


このシーンの切なさがずっと心に引っかかっている。これを読んでいて思い浮かべた情景は、もう忘れることができないだろう。

忘れられた巨人

忘れられた巨人

 

 

 

機龍警察 暗黒市場

昨年からこの機龍警察シリーズに嵌ってしまっていた。最初の作品の冒頭はわかりづらく読みづらいしパトレイバーのようだな、と思っていたけれど、読み進むごとにどんどん面白くなる。

ただのSF犯罪小説ではなく、コンゲーム的な要素であったり、警察内の政治的駆け引きであったり、知的なバトルが多いのがこの作品の特徴だと思う。

そしてドラマがある。熱くてクールでハードボイルド。

この機龍警察サーガは、複数人の主人公がいて、うち3人の超人的な能力を持つ傭兵が特に重要人物だ。その中の一人、元ロシアの警察官だったユーリが今作の主人公。一見感情が無さそうな3人の傭兵の中でも、実は浪花節的な姿を垣間見せていた人物だ。だから彼の強さだけでなく、みっともないくらいの弱さが書かれていて、そしてそれを克服する姿も書かれている。とてもエモーショナルだった。 

 

機龍警察 暗黒市場

機龍警察 暗黒市場

 

 

機龍警察 未亡旅団

そして機龍警察サーガは、続編になるごとに凄みを増していく。

今作では「取り調べ」という章での、ドラマチックで汗握る心理戦のやり取りがすごい。どうやったらこんな作品が書けるんだろう。そしてチェチェンの深い闇と悲しさをしっかり描いたことに凄みがある。スケールが大きい。

今作の敵は、チェチェン紛争で親愛なる人々を失った女性のみで構成されたテロリスト集団だ。中には少女も多くいる。テロリストとはいえ、彼女たちにも曲げられないものがある。機龍警察の中でも、最も救われない絶望的な話だ。

しかし、最後の最後に救われた気分になった。泣いた。圧倒的な物語だった。今のところシリーズ最高傑作ではないか。

 

機龍警察 未亡旅団

機龍警察 未亡旅団

 

 

シャオミ 爆買いを生む戦略

ユーザーを大事にする会社の戦略は、これまでたくさん語られてきた。しかしシャオミの戦略はシャオミにしか取れない。それでも、筋の通った徹底的な施策は、やはり成功を収めるし、人の心を動かし続けていくのだと思った。

また、中国のマーケットの広さが改めてすごい。ソーシャルメディアを使うと効果があるというのは、中国くらいの規模感が無いと生きてこないのではないか。まああれだけの多様な人々に、好意的な支持を受ける施策をうったシャオミが本当にすごいのだろう。

中国の文化のわずかな違いも含めて楽しめる。爆買いというタイトルは余計。

 

 

お母さんの「敏感期」―モンテッソーリ教育は子を育てる、親を育てる

簡単に読めるが、示唆が多い。前半は脳科学の話で正直少しつまらないが、事例とともにモンテッソーリを教えてくれるパートになると俄然面白い。子育ての状況が目に浮かぶ。

早速この本の考え方を真似て、娘が集中していることをできるだけ邪魔せず、娘が何を欲しているかに集中し、娘に自律してもらうための行動を手本として集中させてみた。そしたら歯磨きとうがいが楽しく簡単に一緒にできるようになった。何かに集中しているときは、大人があきらめるしかない。そうしてあげると、すっきりと次の行動に向かってくれるので、娘の納得がいくだろうし、結果的には全てがスピーディに進むんだと実感している。

 

 

学びとは何か――〈探究人〉になるために

まさしく学びとは何かの本だ。子どもを見ていると、すごい速度で世界を学んでいくものだと思う。もし自分がどこか全く知らない言葉ばかりの外国にふとやってきたとして、子どものように楽しく恐れず、すごいスピードでコミュニケーションができるようになっていくだろうか?子どもは単語をそれ単体で覚えるのではなく、システムの中で相互に関連付けながら体得していくのだ。

子どもが小さいうちに読んだことで、ああ今この子はこうやって世の中を学んでいるのか、ということを自分が実感しながらこの本で書かれていることを体感できた。新しい目で世の中を見て、誤ったスキーマも見直していかなければならない。

知的能力の大部分は遺伝によって決まるという、納得できる説も読んで暗い気持ちにもなったが、こういった本を読むと、それでも探求していく、学んでいく姿勢の素晴らしさを知ることができる。

学びとは何か?〈探究人〉になるために (岩波新書)

学びとは何か?〈探究人〉になるために (岩波新書)

 

 

USJを劇的に変えた、たった1つの考え方 成功を引き寄せるマーケティング入門

マーケティング関連の本は、かなり概念や学術的内容が多くなってしまう。もしくは筆者の実務的な経験が中心に語られてしまう。しかし、この本はマーケティングを学術的に勉強された筆者が、実務ベースにマーケティング事例を語っている。

ものすごく腑に落ちる。努力家だし、すごい人だと思う。読んでいて劣等感にさいなまれるレベルだった。

 

ストーナー

とても良かった。日本語訳が発売されたのは 2014年9月だから今から1年半前だ。そもそも本書か出たのは1965年。確かに今では出せない小説かもしれない。

物語はある大学教授が 生まれて死ぬまで本当になんでもない、ただの一生を描いている。 特にひねりもないし不思議な出来事も起きない。このような唯人の一生を描くだけの、いわゆる文学作品はもうなかなか書かれることはない。一言で紹介するようなフックもないし、売れ筋ではないのだ。

しかしここで書かれた何でもない人生、生き方、その文章と世界観はとても美しい。 ストーナーの遅れてきた青春、仲間たちとの交流、文学に目覚める瞬間、やがて夫となる女性に出会う瞬間、子供への愛情、家庭の不和、不倫、死、全てリアリティーだ。なんでもないのに深く心が揺さぶられる。

この本の9割は東江一紀が訳したという。ドンウィンズロウの「犬の力」や、別名で「文明崩壊」を訳した、とても偉大な方の最後の翻訳作業となったらしい。
ポールオースターや村上春樹が好きな人もきっとこの本は好きになるだろう。オースターや春樹のように不思議な出来事が起きないけれども、この本の文体を読んでいる時の、心が静かにゆっくりとしていく感覚がとても似ていた。
ストーナー

ストーナー

 

 

失われた夜の歴史

電気ができる前、人は夜をどのようにして過ごしていたのか。一日の半分が暗闇に包まれていた時代。現在ではもう想像も及ばない時代。

その時代、夜にまぎれて行われた暴力、夜の中ではぐぐまれた友人たちや男女同士の営み、悪魔的存在、権力から解き放たれた闇であり権力が取り締まろうとした世界、眠りの世界はどんな様子だったのかが、あらゆる文献を元に語られる。

人は真っ暗な夜の中を、手探りで、記憶を頼りに宴会や恋人の元へ出かけていったらしい。昔も人間は変わらなかった。ただ驚いたのは、昔は第一の眠り、第二の眠りがあり前のようにあったということだ。その間に仕事をしたり、瞑想したりしていたようだ。

昔はこうだった、というが、過去にあった人の眠りの世界は失われ、電気の光とともに人の生活様式は大きく変わったのだ。 

失われた夜の歴史

失われた夜の歴史

 

 

 

「全世界史」講義 教養に効く!人類5000年史

この本があれば、もっと世界史に臨場感と物語性をもって学べたのかもしれない。歴史を振り返ることは人間を知ることだとよくわかる。

学校で教わってきた世界史は、四大文明オスマン・トルコ帝国こそ出てくるものの、どこかヨーロッパ中心だった。しかし、昔はアラブとヨーロッパが中心、というか一時期のヨーロッパはアラブ世界に比べれば遥かに野蛮な世界だったことがわかる。

でもそのようなアラブ世界も、地形、宗教、技術の発展、いくつかのたまたまな要因によって逆転してしまうのだ。

 

 

恐怖!!新大阪駅で靴下に沿ってボールペンでグルグル書いて欲しいと言われる!

新大阪駅にて。まだ肌寒い今年の3月。出張先から東京に帰ろうと、新幹線の構内に入った。新大阪駅の待合室は大抵混み合っているが、奇跡的に席が一つ空いていた。座ってしばらくすると、隣の男性が話しかけてきた。不明瞭な喋り方だった。

聞き取りづらかったのだが、よくよく聞くと「靴下がずり落ちてしまうので、ボールペンで靴下がある位置にグルっと線を書いてもらえませんか?」と仰っているようだ(意訳)。


つまりくちゴムに沿って。ボールペンでぐるぐる線を書いて欲しいということのようだ。意味がわからないし、その上聞き取りづらいから何回も聞き直した。「本当にいいんですか?」と聞くと、「いい」と言う。「汚れるからやめたほうがいいですよ」と言うと「書いて下さい」と言う。「ボールペン持ってないです」と言うと、かばんに入っていたボールペンを手渡された。

しょうがないからグルーッと一回り書き、これ実は聞き間違いで怒られたりしないかな、と思って彼を見たところ「もっと濃くお願いします」と言われた。まあまあ正解だった。ふくらはぎのあたりをボールペンで強めにグルグルと書いた。「これでいいですか?」と聞かれると、「もっと」と言われたのでさらにグルグル書いた。

 

そのうちに、「メッセージを書いて下さい。あなたが今思ったことを」と言われた。宗教の勧誘か?ふくらはぎに「元気で頑張って」と書いた。自分にそう思ってた。

彼は「元気で頑張って」と読み上げて微笑んだ。この時までは、外国の人が日本に来た記念に、日本語で文字を書いて欲しいのかなと好意的に解釈をしていた。違った。読める。「もっと書いて下さい」と言われたので、膝に「OK」と書いておいた。満足そうな顔をされていた。つるっとした膝だった。元気で頑張りたい。

その後このようなやり取りをした。

「あなたは靴下がずり落ちても気にしませんか?」
(僕)「気にしません」
「今(あなたの靴下は)どのあたりにありますか?」
(僕)「足首のあたりです」
「見せてもらえませんか?」
(僕)「(自分のパンツの裾をあげて)こんな感じです」
「あなたも書きますか?」
(僕)「結構です」

 

そんでこれ、周りの人からどう見られてるんだろうなーと顔を上げてみたら、すべての人々が急に見なかったふりをしていた。

ちなみに僕がボールペンを書いている間、彼はずっとスマホをいじっていた。失礼である。スマホをこっそりのぞいたところ、ものすごくゴテゴテとして金色のスマホケースで、角が生えていた。画面は、よくわからない英語のような言語の羅列が並んだメッセージアプリ風が表示されていた。

 

もう新幹線きたんでーと言って、早めにホームに向かって、少し寒いけど15分くらい立って新幹線を待った。待っている間、混乱する頭でこれらのやり取りを社内のチャットツールに書き込んだところ、「こわい」という声が多数寄せられて、「ああオレの感覚は正常だったんだな」とホッとした。東京に帰ってお土産の551の肉まんを食べた。現実に戻った。実話。おわかりいただけただろうか。