言いたいことがなにもない

プライベートな日記です

娘が産まれるまで

子供が欲しいと思うまでが僕らは結構遅くて、いざ欲しいと思い始めてからは中々子供が出来なかった。ついに出来たかと思いきやただの体調不良だったりという日々が長く続いた。

 
だから、お医者さんから子供が出来たと言われた時には本当に嬉しかった。それまでは正直、子供が出来た時に俺は素直に喜べるのだろうか、と悩んでいたくらいだった。
ずっと待ち望んでいたからだろうか、あの時の嬉しさは今までに感じたことのないものだった。仕事の打ち合わせの帰り、日比谷の地下鉄のホームを歩いている時、ふと「俺にも子供が出来たんだぜ‼」と全世界に向けて叫びたくなった。
 
叫びたいくらいだったのにも、きっと理由があった。まだ安定期に入ったわけではないから、流産になる可能性もある。一般的に、自然淘汰によって流産する可能性は15%もあるらしい。さらに僕らは高齢出産になるので、その確率はもう少し上がる。残酷な話だ。だから、安定期に入るまでは、ほぼ誰にも言わなかった。だから言いたくても言えない状況がそうさせたんだろう。
 
だから、例えば階段を避けてエレベーターを使うようにしたりと、日常の様々なところで気を払い合っていた。食生活も変わった。つわりの中でもしっかりと栄養がとれるように自炊していた。あげくのはてに、鉄分やカリウムなんかが豊富に取れる朝食は何かを考え始めた結果、フルーツグラノーラを手作りするまでになった。そんな日々を過ごしながらも、もしも流産した時にあまりショックを受けないように、普段から「もし今日流産していたとしたら…」と想像し、辛いことが起きた時の心の準備をしていた。今思えば相当ネガティブ思考だ。とにかく毎日を慎重に過ごしていた。
 
そうして無事に安定期に入った時は、心から安堵した。安堵ついでに、二人の最後の旅行の機会ということで宮古島に行ったりした。
 
それから2013年10月11日の夜だったか、ふと奥さんが「これ動いているのかな」と言った。そこでお腹を触った時、夫婦二人で同時に胎動を感じることができた。それまでは産婦人科のエコーでしか娘を見ていなかったが、お腹の中に命が宿り、活動していることを実感して、不思議な気分になったことを思い出す。
 
そういえば性別が娘だとわかった時が一番不思議な気持ちだった。僕が三人の男兄弟の中で育ったことが一つ。もう一つは、初めてエコーに映ったとき、両手を広げてバンザイして現れたものだから、「こんなひょうきんな奴は男に違いないな」と決めつけていた。ああ娘なのかと実感するまでには少し時間がかかった。
 
それから産まれる日までを楽しみに日々を過ごしていた。色んなグッズを買い揃えたり、出産の本を読んだりをしつつ、二人で少し高めの美味しいものを食べに行ったりしていた。それぞれの両親に報告したら喜んでもらえたのも嬉しかった。一番の親孝行だ。奥さんは安産を目指して、マタニティヨガに通ったり、安産向けのお茶を飲んだりしていた。僕は毎日ヨガで教わってきたというマッサージをさせられたり、ネットでお茶を買わされたりしていた(ああ、どうでもいい話をしてしまった)。そして毎日お腹を触りながら話しかけるようにしていた。動いてくれるたびに可愛くなった。
 
出産日は群馬で120年に一度の大雪が降った日で、とにかく大変だった。全くもって大変だったな。その様子は別の記事に書いた。
 
とにかく家族や救急隊員、助産師さん、看護師さん、たくさんの人達の力で産まれることができた。みんな幸せそうな顔をしてくれた。いつの間にか奥さんも母親の顔になっていた。無事に産まれてくれて、本当に良かったなあ。
 
少し僕の話をする(恥ずかしいけど)。僕は数年前までは、1年後の自分がどうなっているかを思い描くことができなかった。「来年の抱負は」「人生の展望は」と聞かれるたびに、答えに窮していた。なぜかはよく分からない。ずっと昔からそうだった。でも結婚して、子供ができて、やっと自分にも長い未来があることを信じられるようになった。来年には娘が一歳になる。再来年は、二歳。娘が産まれて、僕が一番に良かったのだろう。
 
娘の名前は、胎児の頃から話しかけ続けていた名前にする。もちろんいくつか考えてみた。でもその名前なら、海外の人でも呼びやすい発音だった。彼女には色んな可能性を残してあげたい。
 
いつか娘が大人になったら、きっとたくさんの悩みを抱えるだろう。ひょっとしたら、自分は誰にも愛されていないだとか思ったりしてしまうかもしれない。でも、この世へ誕生することががどれだけ待ち望まれていたか、それをふと思い出してもらえれば、何がしかの力になるかもしれない。そういう物語を記録に残しておいてあげたい。そう思ってこの記事を書いた。