言いたいことがなにもない

プライベートな日記です

町を見下ろす丘

自宅前の道路を挟んだ向こうに線路があり、朝早くから夜更けまで電車が走っている。家の中にいてもうっすらと電車の走る音が聴こえる。だからか、片手で数えるほどしか言葉が話せない娘が早くも「でーしゃー!でーしゃー!」と言えるようになった。電車が通るのが見えると、指をさした後で手をバタバタとさせて喜んでいる。
静まり返った夜中、聴こえる電車の走る音が寂しい。僕の実家は車文化だったから、大人になって東京に出るまでほとんど電車に乗ることはなかったのだが。電車が通り過ぎる音を聴きながら家族で眠る。

自宅のマンションからは電車だけでなく、川向こうに建つデパートや高層マンション、またすぐ近くにはいくつもの住宅や公園、学校、そして自転車が通り過ぎる様子や明かりが灯っていく様子、朝から夜までそれらの人の営みが見渡せる。休日にマンションの廊下から公園を見下ろすと、たくさんの親子がボールを投げ合ったり走り回ったりと遊んでいる姿が見える。

10年と少し前、広く町を見下ろせられる家に住んでいた。一軒家の二階の一部屋を間借りしていたのだ。その家は少し高くの丘の上に建っていて、部屋の窓も大きく、周りに遮るものもなかったので、今よりもさらに広く町の様子が一望できた。よく晴れた日は、遠く山の向こうまで住宅やデパートが見えた。

当時の僕はフリーターで、特にやることはなかった。バイトの深夜勤務を終えた早朝、仕事に向かう人の流れに逆らって帰っているか、もしくは夕方に世間がそうするよりも一足先に帰ってきていた。
家に帰ると、電車が都心に向かっていく音、子供達が大騒ぎしながら学校に向かう声が聞こえた。暗くなるにつれて明かりが灯っていく様子、それからまた消えていく様子も見えた。それらをぼんやりと眠りながら聞いていたり、窓からただ眺めて暮らしていた。

町を見下ろす丘

町を見下ろす丘


ライブで演奏者側が音量が大きくする理由の私見

このエントリを読んだ知り合いが「なんで耳栓が必要になるくらい大きな音量でライブをやるのか。クラシックならアンプも使っていないし、必要ないではないか」と言った。

sauce3.hatenablog.com

ライブの音量が大きくなる理由はいくつか考えられ、勝手に分類してしまうと、演奏者のエゴ、表現、スタイル、エンターテイメント性、思想があるのではないかと思う。

演奏者の話なのでPAが下手、会場のハコの響きや設備がダメ、というのは除く。

演奏者のエゴ

演奏初心者がバンドを組んでスタジオに入ると、大体他のメンバーの音を聞かずに自分の音だけを聞いて興奮しているので、自然と自分のパートの音量を上げてしまう。
他のメンバーの音量がさらに大きいと、負けじとより自分の音量も上げていき、結果的に全員爆音で何を演奏しているのか分からなくなる。
バンドとして経験を積んだり、上級者が入ってくると、ボーカルやドラムの音量を基準にしたり、全体の音像を考えて配置していくので問題はクリアになる。
ただこれは初心者のケースとはいったものの、やっぱり自分のパートの音量を大きくしたい、目立ちたい、とはどうしても思ってしまうものだ。

ジャンル(スタイル)

例えばヘビーメタルの流れを組む一時期のビジュアル系なんかだと、ドンシャリ系という中域を大幅にカットし、低音と高音の帯域を極端にあげる、というサウンドが主流だった。このサウンド自体、迫力を求めているがゆえに音量が小さいと非常に間抜けに聞こえてしまう。
 
ドンシャリ系は別としても、パンクやヘビメタのようなアナーキーな風貌のバンドが小さい音量で演奏していたら、相当に間抜けっぽい。
一方でスタンダードジャズが爆音ということはない。爆音のジャズはジャンルが変わる。そう考えるとまず音楽のジャンルがあり、さらにはそれをどういうスタイルで演奏するかでも決まってくる。
 
そういえばThe Whoは音が大きすぎて最前列の観客の鼓膜を破ったというロック伝説がある、とタモリ倶楽部で言っていた。だがその後同じ出典を見かけたことがないため、都市伝説かもしれない。でもピートタウンゼントが腕をブンブン振り回しながら、ギターの音が小さくてペケペケしていたらコメディっぽい。だからある種のロックバンドなんかは、やはり音量の大きさは切り離せないと思う。

エンターテイメント性

音楽フェスがより一般に浸透していった影響か、ベースの音量を大きくしてノリやすい、踊りやすい四つ打ちサウンドを構築するバンドもしばらく前は多かった。
こうすると、大きめにするとは言えブーストした低音をもとに全体のバランスを作りたくなるため、結果的に全体が大きくなってしまうことがある。
ただテクノのイベントなんかだと分かりやすいけど、低音が大きいだけなら耳への負担は幾分マシなはず(真偽は不確かなので、自己責任で)。耳を傷つけるのは高音域が原因で、ドラマーなんかだとハイハットシンバルがある左側の耳の方が難聴になってしまうケースがある。

表現方法

楽譜でもクレッシェンド、デクレッシェンドがあるように、演奏の中で静かなパートと音量が大きいパートを使い分けることで、それぞれの表現を際立たせることができる。それを追求した結果、一曲のなかに耳をすます程の静寂と聴くものを圧倒する爆音をもうけることで一つの表現にしているバンドもある。
このようなバンドが静かなパートを演奏するとき、観客も耳を澄まして聞く必要があるくらい極端なこともあり、ものすごい緊張感が漂っている。爆音は勢いで成立することもあるが、静かな音はその人の演奏力や表現力が露わになるので誤魔化せない。またそれは爆音のパートがあってより凄さは際立つ。改めてだが、そうすると先ほどスタイルという項目で語った迫力という観点とは別に、曲の構成として大きな音量のパートが必要になる。
ただこのようなバンドを音像にも相当こだわっており、爆音というか轟音にすることで、音は大きいが耳はそこまで痛くならない、音を浴びる、音に包まれているような体験をさせてくれることが多い。
 
あとは、ギターの音の作り方、出したい音によっては、ある程度以上の音量にしないとベストな響きにならないことがある。
極端な例だと、ノイズギターを出すとき、これも心地よいノイズと不快なノイズ、どちらも表現としてあるのだけど、ある程度の音量と圧力がないと説得力がない。

思想

マイブラくらいのバンドになると、なぜ爆音を出すかというとそれは表現を超えて思想、もしくは人生だ。
再結成の来日公演に行ったら耳栓が配布され「こんなものを使うのは軟弱で邪道だぜー」とか思っていたが、最後にyou made me realizeを超爆音で30分やっていた時、流石に途中で耳というか脳みそが痛くなって耳栓をした。耳栓をしても爆音だった。

最後に

僕は特に聴いているアーティストではなかったが、アンドリューW.K.が「始めてクラシックを聴いた時に、こんなにたくさんの楽器を使って一斉に音を出してまで伝えたいことがあるのかと思った」とインタビューで答えていて、納得感があった。
 
世の中、声だけがデカいつまらない人間が幅を利かせていることは往々にしてある。それなら本質的にマイノリティーであるロックバンドなんかは、せめて音楽くらい大きな音を出すしかないだろう、と僕は思う。
 
なんて格好良いことを言ってみたが、元のエントリはアイドルのライブについてじゃないか。 俺もおっさんだからそろそろ耳栓するかな。
Loveless: Expanded Remastered Edition

Loveless: Expanded Remastered Edition

 

 

娘の風邪と手作りのプリン

母親が出て行って娘が大泣きした、と書くと事実だけど事実ではなくて、別に奥さんが僕に愛想をつかせて出て行ったということは今のところは無く。ついに奥さんも仕事に復帰した。お互いの仕事の時間の関係で、僕が保育園に連れて行き、奥さんが迎えに行くことになる。そうすると、奥さんが先に家を出て行くことになり、娘はママが出て行ってしまうと泣く。

でも案外すんなりと泣き止み、むしろ外に出たいとすぐに玄関に行きたがる。靴下を見せると嬉しそうに寄ってきて、履かせてくれとゴロンとする。
朝の洗濯と洗い物を終え、僕の外出の準備もできたら、保育園まで一緒に歩いていく。たった5分程度だけど、マンションの入り口のささやかな坂を慎重に下ったり、草花を指差したり、すれ違う人にバイバイと手を振ったり、娘には冒険なのだろう。保育園で離れるときは、やっぱり泣く。

そうこうしているうちにゴールデンウィークに入り、合間の平日に有給をもらったのだが見事にこのタイミングで娘が38度の熱を出した。保育園では預かってもらえないので、有給は自動的に看病のためのお休みになった。

どんなに熱があってもニコニコと元気に歩き回る。あんまり体力を使うのも良くないので、ベビーカーに乗せて散歩することにした。栄養がつくご飯でも食べさせようと近所のデパートで野菜を買った帰り、通りすがりのおばさんに「この子の靴、片方ないけどいいの?」と言われる。決してよくはない。いつの間にか靴を脱いで捨ててしまったに違いない。デパートの中をベビーカーを押しながら探し回り、なんとか見つけることができた。その時すでに娘は寝ていた。

そうして三食のご飯を作ってあげたり、おやつにプリンを作ってあげたり、洗濯したりとしているうちに、1日は大体終わった。特に何もできない有給だった。プリンは砂糖をあまり入れずに作ったが、マンママンマと目を輝かせて食べていた。その甲斐もあってか、1日で熱は下がった。

翌日、奥さんと娘は二人で群馬の実家に帰った。当然愛想をつかされたわけではない。この機会にと、見たかった映画を見たりして過ごしているが、ふと娘のおもちゃが目に入ったりすると、部屋の中に奥さんと娘の残像が見える。一人で気ままにやっているつもりが、娘にプリンを食べさせたらニコニコしていた姿を思い出してしまう。

僕が子供の頃に風邪をひくと、母親がりんごのすりおろしを作ってくれた。あんなに素朴な味なのに、風邪をひいた時だけは特別な味に感じた。娘にとってのそれはプリンになるのかもしれない。

数年ぶりの風邪

わざわざ大人になってから風疹にかかったり、みんなで同じ鯖を食べてわざわざ僕だけが食当たりになったりしたことはあったけど、風邪をひいたのは3年ぶりくらい。38度あった。何をしていても喉が焼けるように乾くし、頭も痛いし、身体が熱い。いかにも体調が悪いというのは久しぶりの感覚だ。

またよりによって仕事での大きなリリースが済んで、お客さんと楽しく打ち上げるぞ!という当日にわざわざ風邪をひき、僕だけがキャンセルになった。
医師でもあった森鴎外は「風邪というものは寝ていさえすれば治る。それ以外に治療法はない」と言っていたらしい。実際に風邪薬は対症療法でしかない。ひたすら布団の中で汗をかいて睡眠をとるべきだ。
そういうわけで早めに帰って寝たけれど、みんなが楽しそうに飲んでいるという悪夢をみた。実際楽しかったらしい。良い話。

年末から仕事で色々と取り組んでいたものが次々とリリースされ、まだ全部終わってはいないけれど、落ち着いてきたこともあって気が抜けてしまったに違いない。

それでも娘がいると、朝早く起きてから娘を起こして、着替えさせて、ご飯を作ってあげて食べさせて、保育園に連れて行って、といったことはやらなければいけない。そして何より娘に風邪をうつしてはならない。親の責任は重いものだ。

そう言いながらも、娘が自分の足で歩きながらニコニコしている様子を見たりすると、不思議と風邪くらいなんてことはないなという気分になる。寝る以外の薬もある。良い話。

娘の保育園の入園式だった

今日は娘の保育園の入園式だった。午前休をもらって奥さんと一緒に出席した。入園式といっても、ほとんどは挨拶と明日からの慣らし保育にあたっての注意事項で、一時間経たないくらいで終了した。
娘は保母さんに向かってニコニコと手を振っていた。

大体の保育園には、窓ガラスに可愛い動物の形の切り抜きが貼ってある。今まではいかにも保育園っぽいデザインだと思ってたけど、いざ自分が娘を預けるとなると、とにかく楽しい雰囲気で子供を迎えようとしてくれているんだな、ありがたいな、と見え方が変わった。

娘も産まれてから一年と少しが経ち、ついに保育園に行くのかと思うと感慨深い。大変だったけど、いつの間にか過ぎていった気がする。成長が早くて、一瞬一瞬が貴重だった。

奥さんの勤務時間の都合上、保育園に送るのは僕が、迎えに行くのは奥さんの役目だ。
多分、奥さんが仕事に行くために家を出る時、保育園に預ける時の二回は大泣きするだろう。
知らない人にもニコニコと笑顔を見せるように育ってくれたけど、ほんの少し僕や奥さん離れるだけで泣いてしまうくらいに寂しがり屋だから。

でもだんだんと、保育園の友達に会いに行くのが楽しみになって、いつの間にか一人で遠くまで走って行ったりするのだろう。

娘を預ける保育園には、年長の子を含めると、4〜50人はいた。友達をたくさん作って欲しい。もう少ししたら走り回るだろうし、そうしたら一層大人には見えないたくさんのものに気付くだろう。道路に転がる何の変哲もない小石を拾って、興味深く眺めているくらいだから、きっと世界の広さに驚くはずだ。

そういえばこの一年、奥さんか僕が一緒にいなかったことはほぼなかった。でも、これからは僕らが知らない時間を過ごすことになる。保育園とのやり取りノートでしか知らない娘が出てくるのだろう。
保育園からもらったイベントのチラシや献立表を見ていると、娘がたくさんの友達と並んでニコニコしている姿を想像してしまう。

毎日ニコニコしてくれているので、きっと毎日楽しく過ごしている、そう思うことにしている。どうかこれからも元気で、僕らも知らない楽しい日々を過ごしていって欲しい。

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赤ちゃんの沐浴を父親が朝に行うススメ

我が家では、朝に娘をお風呂に入れている。

 
いくつかの理由があって、
  • 生後まもない頃、娘の頭を片手で支えながらお風呂に入れるのは力が必要だった
  • 少しでも奥さんの睡眠時間を確保する
  • 少しでも育児の作業を分担する
といったものがあった。
 
最初は朝7時に起きなければならないし、たくさん泣かれるしで大変だった。
どうやったら泣かさずにお風呂に入れられるか、苦心の結果をブログにまとめていた。
 
 
でも、夫が仕事に行く前にお風呂に入れてあげるのは、先に書いた理由を解決するだけではない、もっといいことがある。子供の成長を感じられることだ。
 
仕事に行くと朝しか会えなくなるけど、お風呂に入れてあげることで触れ合う時間ができるのだ。
ベビーバスに入らなくなったことで身体が大きくなったことを感じる。お風呂に入れても泣かずにニコニコしている姿を見て、世界に慣れてきたことを感じる。お風呂のおもちゃで遊ぶ様子で、少しずつ手先が器用になってきたことを感じる。お風呂の中で、たくさんお話しして、お湯をバシャバシャしてくれる。
そんな毎日の少しずつの変化を見ていくことができるのだ。
 
でもこれから娘は保育園に入り、奥さんも仕事が始まる。そうすると、奥さんの仕事で出掛けるタイミングの都合から、朝にお風呂を入れるのは止めて、奥さんが夕方にお風呂に入れなければならなくなる。無理して朝にお風呂に入れるとなると、娘は遅くとも6時半までには起きなければならず、それは少し可哀想だ。だから、朝にお風呂を入れることはもうすぐ終わる。
 
もうあと数日だけの機会だと思うと、最初は大変だったけれど、本当に大切で幸せな瞬間を毎日過ごせていたんだな、と思う。あーこんなに寂しくなるものなのか。
せめて休日だけは、僕がお風呂に入れてあげようと思っている。
 
 

mogwaiのライブが最高という話

先日mogwaiのライブに行ってきた。mogwaiのライブに行くのは、多分10回は超えている。そこまで通っているのは日本のバンドでもあまりいない。

どんなバンドかといえば、爆音ギターのインストバンドだ。初期の曲で、僕が最もよく聞いていたX'mas Stepsという曲がある。
 
例えばこの曲は、静かなギターの音で始まる。それが少しずつ不穏さを増していき、歪んだベースの音が重なるとともにテンポが上がっていく。4:18くらいから、ザクザクとしたギターリフのユニゾンが始まり、4:50からギターの爆音が炸裂する。これがライブで聞くと、ギターからこんなデカイ音が出るものなのかとひっくり返るのだ。
 
初めてmogwaiのライブを見たのは、2000年のフジロックだ。あまりの爆音に衝撃を受けて、そのすぐ後の来日公演にも親友を誘って行った。
今はなき新宿リキッドルームで見たのだけど、終わった後に友人が「新宿が吹き飛ばされたかと思った」という秀逸なコメントを残した。
 
mogwaiは日本を好いてくれているのか、当時は一年にニ、三回来日してくれることもあった。
彼らもずっと変わらないようでいて、途中でバリーが加わって人数が増えたり、少しの間だけチェロが加わって抜けたり、約30分の曲を演奏したり、また打ち込みやボーカルを加えたりと、爆音ギターのインストバンドという形態の中で変化し続けている。
 
でも変わらないのはライブだ。いつでも緊張感と殺気がある。爆音だけでなく、極力小さな音で緊張感をもって演奏している時も素晴らしい。曲の最中、確かジョン・カミングスが飲み物の缶をプシュッと音を立てて開けてしまった時、「やっちまったー」みたいな顔をしていたことがあった。
 
インタビューDVDで、メンバーは口を揃えて「バリーは天才だ」と言う。確かにバリー加入以前と以後では、より音楽的になり、音像もバラエテイに富むようになった。
しかし、mogwaiの核はステュアートのギターだと思う。彼のギターがあるからこそ、緻密で、そして緊張感と殺気が漲っている。
 
mogwaiを轟音ギターのバンドと呼ぶ人もいる。むしろそう呼ばれる方が多い。だが僕にとっては爆音ギターのバンドだ。
轟音という言葉には、包み込むような空間の要素がある。もちろんmogwaiの曲も、マイブラの影響を受けた美しいギターのホワイトノイズが轟音のようになる曲もある。古くはマイブラ、その後はmogwaiの影響によって、世界中で轟音のバンドが増えた。
しかし、mogwaiが持つ殺気を取り入れるバンドは少ないように思う。一時期ポストロックが流行った時、だいたいのバンドがだんだん盛り上がって音が大きくなる曲を演奏していた。
 
mogwaiの曲もだんだん盛り上がるが、その音像はもっとザクザクと、包み込むようなものではなく、聞いているものをなぎ倒そうとしてくる。そのような意味で、僕にとってmogwaiは爆音ギターバンドだ。
 
そのようなmogwaiも、爆音を発揮できるライブが至高で、音源では中々本領が発揮できない。
2ndのcome on die youngは、緻密な設計と緊張感から、音源でもmogwaiらしさを十分に発揮できていたと思う。しかし、どうしてもワンパターンになりがちなこともあり、中々音源なりの良さを発揮できなかったと思う。

 

カム・オン・ダイ・ヤング(デラックス・エディション)

カム・オン・ダイ・ヤング(デラックス・エディション)

 

 

 だが、ここ二作は音源としてもとても良い。mogwaiも良い意味でベテランになり、曲もバラエテイに富み、力の抜けた展開が適度に混ざることもあり、一枚を通して聞いても飽きない。

例えばHardcore Will Never Die But You Willの中にToo Raging to Cheersという曲がある。静かで不穏で、少し悲しげな演奏に、mogwaiにしては珍しいいかにもマイナーな旋律のバイオリンが重なり、最終的に爆音のアンサンブルで締めてくれる。mogwaiは、このような分かりやすい形でマイナーなメロディや雰囲気を出すことは避けてきたように思っていたが、それを表現しつつ、いつもの爆音もちゃんとあることに、彼らの積み重ねてきた自信を感じる。

特にライブだと、バイオリンの旋律をスチュアートがギターで弾くのだが、このような泣きの旋律をギターで演奏することは全くなかったと思う。でもとても似合っていた。

 

www.youtube.com

 
今年、結成20周年だという。年齢を重ねても実験的で、かつハードコアなままでいてくれるmogwaiのライブや音源が今後も楽しみだ。

 

Hardcore Will Never Die But You Will

Hardcore Will Never Die But You Will

 

 

Rave Tapes

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