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言いたいことがなにもない

プライベートな日記です

人の心は読めるか

人の心を魔法のように読むことができたら格好いいし、超能力者みたいだ。今よりもすごい自分になりたいと、心理学から読心術、コールドリーディング、微表情など、人の心を読み取るためのノウハウ本やセミナーは数多ある。

知とは先人の積み重ねによって拡大していくもののはずだ。しかし人の心を読む方法はこれだけ人気なのに、誤解や争いはなくならない。学校、家庭、会社、政治闘争、宗教、人種、ジェンダー、戦争。それなら心を読むのに長けた人が仕向けているか、そもそもお互いに理解しあえていないかのどっちかじゃないか。

僕が自覚している欠点の一つはせっかちなことだ。会話をしていると、つい口を挟んでしまう。今の仕事場には頭のいい人が大勢いる。早く言葉を発しないと置いていかれてしまうように思えてしまい、せっかちな傾向は強くなったようだ。しかし、それは誤解を重ねているだけだったりしないだろうか?

最近、「人の心は読めるか?」という本を読んだ。この本の結論は、この本の最後の章に数ページで書かれている。言ってしまえば「対話によってこそお互いの理解は促進される」、これが結論だ。そんなの当たり前じゃないかと思ってしまいそうだが、むしろ対話せずに人の心を読むということが幻想なのだ。

もちろん、他人の心を読もうとする第六感が備わっていることは人間が動物と違う点の一つだ。しかし、それは過信となることもある。この本の大半は、相手の心を推測することが、実際にはどれだけ推測したつもりにしかなっていないのかを、これでもかというくらいの論証で綴っていく。

アメリカ人はネイティブ・アメリカンに非人道的な扱いをした。動物のように殺し、住み慣れた土地を追い立てた。ナチスユダヤ人への扱いも、スペインのインカ侵略も。我々日本人だって過去を振り返ればそうだ。

歴史を学べば、それらは過去の過ちであり、もしも自分がその時代にいたなら、それらは誤りだと指摘できたと思うだろう。でもそう簡単ではない。今だって、隣国を見下すニュースや書籍、SNSの投稿であふれている。そういう自分だって、残念ながら時にそんな気持ちになることはある。どうしても遠くにいる相手は概念のようで、心がないかのように、自分より頭が鈍いかのように、報道で知ったステレオタイプにとらえてしまう。その考えを元に行動を起こしたら、ネイティブ・アメリカンへの扱いと何が違うのか。

戦争において、遠くの敵よりも目の前の敵のほうが撃つのは難しいという。理論上は最初の一斉射撃で120人を殺傷できても、平均30メートルの距離での1分あたりの殺傷率は1人か2人かだという。人と人が物理的に近づくと、相手が同じ人間であることを認知して撃てなくなるからだ。

この本では、このような事例だけでなく、多くの実験も紹介されている。

学生に、この事例は倫理に反すると思うかと一問一答をする。中には「はい」が9割だったり、2割になる質問もある。しかし、同じ意見を持つクラスメイトはどれだけいるかと質問をすると、6割か7割はいるという回答になり、5割を切ることはなかった。このように、自分を基準に考えて、自分は多数派であると思ってしまうのだ。

カップルに、相手が望んでいる物を当ててもらう実験をした場合。推測で当てるケースと、相手と会話してから当てるケースでは、とうぜん会話したケースの方が当たる。それだけでは当たり前だが、自分の答えが当たっていると過信している割合は、推測で当てるケースの方が高いという。

このような実験を読むほど、人の心を読むだなんておこがましいと思ってくる。

人は洞察力を過信し、自分を基準にして物を見て、さらに周りの人間は馬鹿だと思ってしまいがちだ。脳は優秀なのであっという間に平均値を算出する。だがそれは物事をステレオタイプに捕らえてしまったり、異変に気づけなかったりするのにつながりやすい。

僕は仕事で、相手がどう反応するかを何通りか想定し、その上で「戦術的にこれが選択されるのではないか」という読みを行うことも多い。当たり外れあるが、これはとにかく読みを繰り返して、精度を上げるトレーニングをするしかない。ただ根本的には、相手と身体感覚を共有して、話し合うことに勝るものはないのだろう。

 

人の心は読めるか?

人の心は読めるか?