言いたいことがなにもない

プライベートな日記です

2016年6月までの面白かった本10冊

ずっとこの半年間で読んで面白かった本を10冊選んでブログに書いている。結構溜まってきた。

今年読んで面白かった本10冊 - はてなの広告営業 mtakanoの日記(2010年)

 

忘れられた巨人

楽しみにしていたカズオ・イシグロの新刊。いつものカズオイシグロに比べると、世界観やストーリーテリングが多く、文章や情景描写の美しさに没頭するようなところは少なかった気がする。やはりファンタジー形式の作品だからそうなったのだろう。


だが、この寓話によって気づかされるのは、現実の我々の世界の残酷さ、どうにもならなさだった。主人公がたどり着いた対立の構図は、絶望的だ。カズオ・イシグロは世間的にも重要な作家になったので、彼が表現をすることは、すなわち世の中への責任を引き受けるということになってしまったのかもしれない。

その上でさらにその先にある最後のシーン。悲しいけれど、この圧倒的な美しさはカズオイシグロ随一だった。


このシーンの切なさがずっと心に引っかかっている。これを読んでいて思い浮かべた情景は、もう忘れることができないだろう。

忘れられた巨人

忘れられた巨人

 

 

 

機龍警察 暗黒市場

昨年からこの機龍警察シリーズに嵌ってしまっていた。最初の作品の冒頭はわかりづらく読みづらいしパトレイバーのようだな、と思っていたけれど、読み進むごとにどんどん面白くなる。

ただのSF犯罪小説ではなく、コンゲーム的な要素であったり、警察内の政治的駆け引きであったり、知的なバトルが多いのがこの作品の特徴だと思う。

そしてドラマがある。熱くてクールでハードボイルド。

この機龍警察サーガは、複数人の主人公がいて、うち3人の超人的な能力を持つ傭兵が特に重要人物だ。その中の一人、元ロシアの警察官だったユーリが今作の主人公。一見感情が無さそうな3人の傭兵の中でも、実は浪花節的な姿を垣間見せていた人物だ。だから彼の強さだけでなく、みっともないくらいの弱さが書かれていて、そしてそれを克服する姿も書かれている。とてもエモーショナルだった。 

 

機龍警察 暗黒市場

機龍警察 暗黒市場

 

 

機龍警察 未亡旅団

そして機龍警察サーガは、続編になるごとに凄みを増していく。

今作では「取り調べ」という章での、ドラマチックで汗握る心理戦のやり取りがすごい。どうやったらこんな作品が書けるんだろう。そしてチェチェンの深い闇と悲しさをしっかり描いたことに凄みがある。スケールが大きい。

今作の敵は、チェチェン紛争で親愛なる人々を失った女性のみで構成されたテロリスト集団だ。中には少女も多くいる。テロリストとはいえ、彼女たちにも曲げられないものがある。機龍警察の中でも、最も救われない絶望的な話だ。

しかし、最後の最後に救われた気分になった。泣いた。圧倒的な物語だった。今のところシリーズ最高傑作ではないか。

 

機龍警察 未亡旅団

機龍警察 未亡旅団

 

 

シャオミ 爆買いを生む戦略

ユーザーを大事にする会社の戦略は、これまでたくさん語られてきた。しかしシャオミの戦略はシャオミにしか取れない。それでも、筋の通った徹底的な施策は、やはり成功を収めるし、人の心を動かし続けていくのだと思った。

また、中国のマーケットの広さが改めてすごい。ソーシャルメディアを使うと効果があるというのは、中国くらいの規模感が無いと生きてこないのではないか。まああれだけの多様な人々に、好意的な支持を受ける施策をうったシャオミが本当にすごいのだろう。

中国の文化のわずかな違いも含めて楽しめる。爆買いというタイトルは余計。

 

 

お母さんの「敏感期」―モンテッソーリ教育は子を育てる、親を育てる

簡単に読めるが、示唆が多い。前半は脳科学の話で正直少しつまらないが、事例とともにモンテッソーリを教えてくれるパートになると俄然面白い。子育ての状況が目に浮かぶ。

早速この本の考え方を真似て、娘が集中していることをできるだけ邪魔せず、娘が何を欲しているかに集中し、娘に自律してもらうための行動を手本として集中させてみた。そしたら歯磨きとうがいが楽しく簡単に一緒にできるようになった。何かに集中しているときは、大人があきらめるしかない。そうしてあげると、すっきりと次の行動に向かってくれるので、娘の納得がいくだろうし、結果的には全てがスピーディに進むんだと実感している。

 

 

学びとは何か――〈探究人〉になるために

まさしく学びとは何かの本だ。子どもを見ていると、すごい速度で世界を学んでいくものだと思う。もし自分がどこか全く知らない言葉ばかりの外国にふとやってきたとして、子どものように楽しく恐れず、すごいスピードでコミュニケーションができるようになっていくだろうか?子どもは単語をそれ単体で覚えるのではなく、システムの中で相互に関連付けながら体得していくのだ。

子どもが小さいうちに読んだことで、ああ今この子はこうやって世の中を学んでいるのか、ということを自分が実感しながらこの本で書かれていることを体感できた。新しい目で世の中を見て、誤ったスキーマも見直していかなければならない。

知的能力の大部分は遺伝によって決まるという、納得できる説も読んで暗い気持ちにもなったが、こういった本を読むと、それでも探求していく、学んでいく姿勢の素晴らしさを知ることができる。

学びとは何か?〈探究人〉になるために (岩波新書)

学びとは何か?〈探究人〉になるために (岩波新書)

 

 

USJを劇的に変えた、たった1つの考え方 成功を引き寄せるマーケティング入門

マーケティング関連の本は、かなり概念や学術的内容が多くなってしまう。もしくは筆者の実務的な経験が中心に語られてしまう。しかし、この本はマーケティングを学術的に勉強された筆者が、実務ベースにマーケティング事例を語っている。

ものすごく腑に落ちる。努力家だし、すごい人だと思う。読んでいて劣等感にさいなまれるレベルだった。

 

ストーナー

とても良かった。日本語訳が発売されたのは 2014年9月だから今から1年半前だ。そもそも本書か出たのは1965年。確かに今では出せない小説かもしれない。

物語はある大学教授が 生まれて死ぬまで本当になんでもない、ただの一生を描いている。 特にひねりもないし不思議な出来事も起きない。このような唯人の一生を描くだけの、いわゆる文学作品はもうなかなか書かれることはない。一言で紹介するようなフックもないし、売れ筋ではないのだ。

しかしここで書かれた何でもない人生、生き方、その文章と世界観はとても美しい。 ストーナーの遅れてきた青春、仲間たちとの交流、文学に目覚める瞬間、やがて夫となる女性に出会う瞬間、子供への愛情、家庭の不和、不倫、死、全てリアリティーだ。なんでもないのに深く心が揺さぶられる。

この本の9割は東江一紀が訳したという。ドンウィンズロウの「犬の力」や、別名で「文明崩壊」を訳した、とても偉大な方の最後の翻訳作業となったらしい。
ポールオースターや村上春樹が好きな人もきっとこの本は好きになるだろう。オースターや春樹のように不思議な出来事が起きないけれども、この本の文体を読んでいる時の、心が静かにゆっくりとしていく感覚がとても似ていた。
ストーナー

ストーナー

 

 

失われた夜の歴史

電気ができる前、人は夜をどのようにして過ごしていたのか。一日の半分が暗闇に包まれていた時代。現在ではもう想像も及ばない時代。

その時代、夜にまぎれて行われた暴力、夜の中ではぐぐまれた友人たちや男女同士の営み、悪魔的存在、権力から解き放たれた闇であり権力が取り締まろうとした世界、眠りの世界はどんな様子だったのかが、あらゆる文献を元に語られる。

人は真っ暗な夜の中を、手探りで、記憶を頼りに宴会や恋人の元へ出かけていったらしい。昔も人間は変わらなかった。ただ驚いたのは、昔は第一の眠り、第二の眠りがあり前のようにあったということだ。その間に仕事をしたり、瞑想したりしていたようだ。

昔はこうだった、というが、過去にあった人の眠りの世界は失われ、電気の光とともに人の生活様式は大きく変わったのだ。 

失われた夜の歴史

失われた夜の歴史

 

 

 

「全世界史」講義 教養に効く!人類5000年史

この本があれば、もっと世界史に臨場感と物語性をもって学べたのかもしれない。歴史を振り返ることは人間を知ることだとよくわかる。

学校で教わってきた世界史は、四大文明オスマン・トルコ帝国こそ出てくるものの、どこかヨーロッパ中心だった。しかし、昔はアラブとヨーロッパが中心、というか一時期のヨーロッパはアラブ世界に比べれば遥かに野蛮な世界だったことがわかる。

でもそのようなアラブ世界も、地形、宗教、技術の発展、いくつかのたまたまな要因によって逆転してしまうのだ。

 

 

恐怖!!新大阪駅で靴下に沿ってボールペンでグルグル書いて欲しいと言われる!

新大阪駅にて。まだ肌寒い今年の3月。出張先から東京に帰ろうと、新幹線の構内に入った。新大阪駅の待合室は大抵混み合っているが、奇跡的に席が一つ空いていた。座ってしばらくすると、隣の男性が話しかけてきた。不明瞭な喋り方だった。

聞き取りづらかったのだが、よくよく聞くと「靴下がずり落ちてしまうので、ボールペンで靴下がある位置にグルっと線を書いてもらえませんか?」と仰っているようだ(意訳)。


つまりくちゴムに沿って。ボールペンでぐるぐる線を書いて欲しいということのようだ。意味がわからないし、その上聞き取りづらいから何回も聞き直した。「本当にいいんですか?」と聞くと、「いい」と言う。「汚れるからやめたほうがいいですよ」と言うと「書いて下さい」と言う。「ボールペン持ってないです」と言うと、かばんに入っていたボールペンを手渡された。

しょうがないからグルーッと一回り書き、これ実は聞き間違いで怒られたりしないかな、と思って彼を見たところ「もっと濃くお願いします」と言われた。まあまあ正解だった。ふくらはぎのあたりをボールペンで強めにグルグルと書いた。「これでいいですか?」と聞かれると、「もっと」と言われたのでさらにグルグル書いた。

 

そのうちに、「メッセージを書いて下さい。あなたが今思ったことを」と言われた。宗教の勧誘か?ふくらはぎに「元気で頑張って」と書いた。自分にそう思ってた。

彼は「元気で頑張って」と読み上げて微笑んだ。この時までは、外国の人が日本に来た記念に、日本語で文字を書いて欲しいのかなと好意的に解釈をしていた。違った。読める。「もっと書いて下さい」と言われたので、膝に「OK」と書いておいた。満足そうな顔をされていた。つるっとした膝だった。元気で頑張りたい。

その後このようなやり取りをした。

「あなたは靴下がずり落ちても気にしませんか?」
(僕)「気にしません」
「今(あなたの靴下は)どのあたりにありますか?」
(僕)「足首のあたりです」
「見せてもらえませんか?」
(僕)「(自分のパンツの裾をあげて)こんな感じです」
「あなたも書きますか?」
(僕)「結構です」

 

そんでこれ、周りの人からどう見られてるんだろうなーと顔を上げてみたら、すべての人々が急に見なかったふりをしていた。

ちなみに僕がボールペンを書いている間、彼はずっとスマホをいじっていた。失礼である。スマホをこっそりのぞいたところ、ものすごくゴテゴテとして金色のスマホケースで、角が生えていた。画面は、よくわからない英語のような言語の羅列が並んだメッセージアプリ風が表示されていた。

 

もう新幹線きたんでーと言って、早めにホームに向かって、少し寒いけど15分くらい立って新幹線を待った。待っている間、混乱する頭でこれらのやり取りを社内のチャットツールに書き込んだところ、「こわい」という声が多数寄せられて、「ああオレの感覚は正常だったんだな」とホッとした。東京に帰ってお土産の551の肉まんを食べた。現実に戻った。実話。おわかりいただけただろうか。

青春の三冊

はてなブログにて小学館さんのキャンペーンで、青春の一冊を紹介するお題が始まりました。というわけで3冊紹介します。

 

特別お題「青春の一冊」 with P+D MAGAZINE
http://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/pdmagazine

 

ブランキー・ジェット・シティ「ワイルド・ウインター」

大学時代、ブランキー・ジェット・シティミッシェル・ガン・エレファントの全盛期だった。

このワイルド・ウインターはブランキーのファンクラブ会報をまとめた本。けれども音楽的にブランキーを解剖した本ではなく、ひたすらメンバーの日常を追ったもので、メンバーの普段のインタビューで構成されている。

レコーディングでロンドンに行ってもロンドンのスタジオの話なんかせずにパラグライダーに乗った話なんかをしている。ブランキーのメンバーは発言も行動も破天荒なので、エピソードがとにかく笑えて面白い。ナンパに失敗した話とか、変なサングラス買った話とか。

何人かの友達に「電車の中で読んではいけない」と行って貸したけど、みんな電車の中で読んで吹き出して後悔した、と言っていた。

タイトルがかっこいいけど、とにかくどうしようもなくて笑える本。友達の評判から、ブランキーを知らなくても面白いらしい。 そんな笑えるブランキーはありのままの姿でかっこよかった。

 

ワイルド・ウインター―ブランキー・ジェット・シティインタビュー集 (双葉文庫)

ワイルド・ウインター―ブランキー・ジェット・シティインタビュー集 (双葉文庫)

 

 

  

宮沢賢治詩集

土田世紀編集王というマンガに、宮沢賢治の「告別」という詩を抜粋したシーンがあり、それがあまりにも美しくて、それから宮沢賢治の詩を読むようになった。

この詩集というよりも、「告別」という詩があまりにも好きすぎて、ことあるごとに読んでいた。孤独に努力する人は孤高であると励ます詩で、自分もこうならなければと思っていた。寂しいときによく読み返していた。

告別

詩というものは読めば読むほど、自分の中に染みこんでいく気がする。読み返すとその頃を思い出す。

新編宮沢賢治詩集 (新潮文庫)

新編宮沢賢治詩集 (新潮文庫)

 

 

 

中原中也詩集

自分にとって宮沢賢治はストイックでブッダのようなハードコアで、中原中也はパンクロックやグランジみたいなイメージだった。 中原中也はとにかく汚れて青臭い。青臭くて刺々しくて、極めて純粋。自分に子供が産まれた今になって、また一層中也が我が子と死別した後の達観した詩を思い出すようになった。

 

中原中也詩集 (1981年) (岩波文庫)

中原中也詩集 (1981年) (岩波文庫)

 

 

 

ものすごく中二病なことに、宮沢賢治中原中也が好きだったので、彼らが生まれ育った岩手県山口県に一人旅したこともある。でもそうすることで、ああこういう寒々しい風景からあのような物語や詩が出来たんだな、と実感するものもあった。

 

ブランキーのくだらないエピソードから、賢治や中也の詩まで、全てが自分の青春時代と切り離せない。それらの言葉を思い出せば、10数年前の自分が地続きで隣にいる気持ちになる。

娘が2歳になった

娘が2歳になった。


誕生日の前日が休日だったので、家族3人でホットケーキを作った。奥さんが材料を準備してホットケーキを焼き、僕がフルーツを切って洗い物をした。娘は椅子の上に立って奥さんと一緒にボールの中の粉をかき混ぜたり、ホットケーキの種をフライパンに流し込んだりした。そういえば、これは家族3人による初めての共同作業だったかもしれない。


隣で「しろくまちゃんのほっとけーき」という絵本を読み上げて、今この作業をしているんだよ、と教えながら作った。ニコニコと楽しそうに、そして全ての作業を興味深そうに観察しながら、大人たちのお手伝いをしていた。包丁も泡立て器もフライパンも初めて触った。そうして出来上がったホットケーキを見てどう思ったのだろう。


1歳になった時は、ようやくここまで来たか、という達成感のようなものを感じたし、娘が大きくなっていくことを数字として実感できた。
1歳になるまでの間には、今日は寝返りができるようになった、今日はハイハイができるようになった、つかまり立ちができるようになった、1人で立てるようになった、そのような娘が突然に大きな成長をしていく様を見ながら、ついに1歳という記念日を迎えていた。


それに比べると、2歳の誕生日には正直1歳の時ほどの達成感、節目感のようなものはない。
なぜかといえば、1歳になるまでのような「今日急にこれができるようになった!」という変化ではなく、少しずつ成長していく様を見ていた一年間だったからだ。


いつの間にか走れるようになっていたし、ジャンプができるようになったし、会話のようなものが成立するようになり、歌も歌えるし、歯磨きやうがいも手洗いも、ズボンを履いたりもできるようになった。当然料理も少し手伝えるようになった。ある日突然何かができるようになったのではなく、少しずつ歩く速度を速めていって、いつの間にか走れるようになっていったのだ。泣いてばかりいた娘は、笑っている時間の方が多くなった。


こうして振り返ると、まだ2歳ながらにして子供と過ごせる期間というのはごくわずかなものだと思う。あっという間に2年間が過ぎた。親になったことに戸惑い、1人の命を預かる重圧を感じながら、右往左往している間に時間が経っていた。何もかもが分からなかったし、全てが新鮮だった。濃密な2年間で、人生で最も幸せな2年間だった。すでにして過ぎた2年間が愛おしい。これからもそうであってほしい。


世の中はクソみたいなものだとずっと思ってたし、今でもまだそう思っている。これからもこんなくだらない世の中にできうる限り迎合なんかしたくねえぞと思ってる。だからこそ、これから娘が生きていく人生のために、少しでもマシなものに、美しいものに出会えるように、自分の手の届く範囲で世の中を変えたいと思えるようになった。自分の細胞が入れ替わった感じがしている。

教育における非認知的スキル

娘がどうしたら幸せに育つのか、いうのはもちろんのこと、子どもの貧困問題もずっと気になっていることもあって、しばらく幼児教育関連の本を読んでいた。

幼児教育、子どもの教育にはトレンドがあるようで、本によって真逆のことを言っていることもある。学術的に真逆な結論が出ているだけでなく、教育という分野はあらゆる人が専門家風になるから「おっほん私の考えではねえ〜」という偉い人の感覚や自らの経験が大きな声になってしまったりもする。こればかりは徹底的に科学的な論考と統計にもとづいて、何が正しいのかを見極めていくしかないようだ。ちなみに「学力の経済学」には、日本の教育は統計的な結果よりも、偉くて声のでかい人のご意見が反映されるという状況が書かれていて暗い気分になる。

 

「学力」の経済学

「学力」の経済学

 

認知的スキルと非認知的スキル

その「学力の経済学」にも書かれているが、最近はこれまでの教育で重視されてきた認知的スキルより、もっと非認知的スキルに着目すべきという話になっている。

認知的スキル、非認知的スキルとはなにか。

認知的スキルはIQや学力的検査によってはかられるものだ。対して非認知的スキルとは、肉体的・精神的健康や、忍耐力、やる気、自信、協調性といった社会的・情動的性質であるという。つまりは、EQや人間力、生き抜く力のようなものだ。


主にジェームズ・ヘックマンという教授が提言しているのだが、幼少期に非認知的スキルを伸ばすことは自制心ややり抜く力を伸ばすことにつながるという。それが学力に影響するのはもちろんのこと、大人になった時の年収の高さ、さらには逮捕率や飲酒率にさえ影響を与える結果が出ているという。偏差値を上げようとして、非認知的スキルを伸ばすような友達との時間や部活動の時間などを奪ってしまうと本末転倒だよ、ということだ。


そして学力を上げるだけでなく問題を抱えるリスクが減る。これは過去のアメリカで、犯罪率と貧困率の高い地域の幼児にしっかりと教育を行ったいくつかのプロジェクトが行われたのだが、その後プログラム受講者の人生を追ってみた結果分かったらしい。詳細はヘックマン教授の本にも詳しいが、端的にはこのリンク先にも書かれている。

「幼児教育」が人生を変える、これだけの証拠 | 子育て | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

貧困は次の世代にも引き継がれてしまうというのが一般的な定説だが、幼児教育をしっかりと受けた子どもたちのその後を追うと、同地域の子供達よりも年収を上げ、逮捕率も低かったというのだ。 


そうすると、先ほど書いたように、非認知的スキルは生き抜く力と言い換えてもいいだろう。


生き抜く力の重要性

生き抜く力が育っていないとどうなるのだろうか。幼児期の強いストレスが大人になってもトラウマを残すというのはもはや当たり前と認識されている。アニメやドラマでもそんな登場人物はたくさん出てくる。

実際に子供時代の逆境を数値化したもの(ACE)とアルコール依存症や自殺率などには相関性があるそうだ。それどころか、過度な飲酒や過食、喫煙という行動をとっていないとしても、成人後の健康に悪影響をおよぼすという結果も出ているそうだ。人間のストレス対応システムは酷使すればやがて壊れてしまうのだ。

しかしこれは回復不能というわけではなく、アタッチメント、つまり愛情によって回復すると言われている。

ちなみにこの本では、これらの調査とその歴史がまとまっている他、過去の逆境と戦って回復しようと必死で努力する子どもたちの事例も紹介されている。

成功する子 失敗する子 ― 何が「その後の人生」を決めるのか

成功する子 失敗する子 ― 何が「その後の人生」を決めるのか

 

 

一方でヘックマン教授の調査には批判もある。例えばヘックマン教授の提言は、ペリー就学前プロジェクトとアベセダリアンプロジェクトという2つのプロジェクトに由来するが、サンプル数としての子どもの数は合計約100人と、あまり多くはない。

それならばと同様の実験を大規模なサンプル数で展開してみたものの成果が見られなかったケースもあるのだが、これらの否定的な成果は提言に加味されていないというのだ。

幼児教育の経済学

幼児教育の経済学


この本では、前半でこのようなヘックマン教授への批判も含めた様々な幼児教育専門家のコメントを紹介し、後半でヘックマン教授がそれらに回答する、という構成をとっている。そのような透明性には信頼がおける。 


もちろん子どもの教育において、そもそも非認知的スキルが重要であるということはほぼ自明であって、それ自身が批判がされているわけではない。

 

教育とビジネススキル 

教育に何が重要なのかは時代にあわせて変化しているかのようだ。大きくはビジネススキルに求められるものの変化が教育に影響を与えているように見える。


大量生産・大量消費の行動成長期に求められていたスキルとは、たくさんの物事を効率的に処理することであったり、特定の分野への高い専門性だった。それは学力検査で高い点数を出すことで適性を判断できただろう。

しかし現代では処理ベースの仕事はコンピューターに任せればよく、むしろ個々の才覚に応じて様々な状況に対応することが求められつつある。突き抜けた専門家でないのなら、むしろジェネラリスト的気質のほうがニーズが高いように思う。だから非認知的スキルが求められているのではないだろうか。


そうして未来の働き方を考えていくと、エンジニアリングスキルが重要になるに伴って、科学的アプローチができる教育こそ必要である、となっているかもしれない。 



そんな風に様々な意見があるので、最終的に何を信じるかに近そうだ。大人が信じたことで、将来の娘に後悔はさせたくないけれども。

でもとにかく幸せな幼年時代を過ごせるように、どうやったら今日は笑ってくれるかとかは考えている。


  

子どもの貧困―日本の不公平を考える (岩波新書)

子どもの貧困―日本の不公平を考える (岩波新書)

 

 

野菜のソムリエがいる下北沢の隠れ家レストラン

数年前に下北沢に住んでいた。引越し当日かその翌日くらいに、引越しを手伝ってくれた女性、それは今の奥さんなのだけれど、彼女へのお礼をご馳走するために尋ねたレストランがある。

今思い返せば、この店を尋ねたことがきっかけで、しっかりと手をかけて作られた料理への意識が生まれた気がする。


引越しの片付けも落ち着き、ネットで色々調べていると、野菜のソムリエがいる店がという文字が目に入り、これは奥さんも喜びそうな店だと予約の電話をした。

今思えば、いざ土日の当日に電話をして入れたのは奇跡に近い。もしかしたらオープンしてからそれほど間も無く、この店もまだあまり知られていなかったのかもしれない。


その店は下北沢北口のひっそりとした路地裏にあり、レンガ調の階段を上った二階にある。ドアを開けると10名も入ればいっぱいになるこじんまりとした屋根裏のようなお店で、店員はシェフとウェイトレスの男女2人だけ。端から端まで全てに目を届く距離感だ。少し暗めの橙の灯りの中で、テーブルの上に飾られた花も細やかでこだわりが見られた。


当然ながら、料理も全てに気が配られていた。まず、野菜のソムリエって大袈裟じゃんと正直疑っていたような僕に、野菜というのはこんなにも美味しいのか!と気づかせてくれた。30にもなって、味の濃い料理さえ食べていれば美味しいみたいな価値観の人間に、美味しい野菜とは何かを教えてくれた。美味しい野菜はみずみずしく、歯ごたえがよくて独特の爽やかな甘みがある。

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そして、その素材の良さを調理によってさらに掛け合わせてレベルアップさせてくれる。口に運ぶほど、身体中に新鮮さが行き渡る感覚があった。そして野菜が主役ながらも、パンからコーヒー、肉や魚まで、全てにこだわりがあった。


帰る時にはシェフが外まで見送ってくれた。実は「野菜のソムリエがいるレストランなんて最近流行りのエコやらロハスに飛びついた店だろ」なんて内心で馬鹿にしていたことを心の中で謝りながら帰った。


それから何回か、奥さんや友人をもてなす時に連れて行ったりした。


僕は牛丼でもカップラーメンでも全然満足して食べられる。でもこういった職人が修行の成果として魂を込めて作った料理を食べると、美味しいだけでなく身が引き締まる。行こうとしたら、シェフが料理の修行に出掛けてしばらく閉店していたなんてこともあった。


大切な人たちが、美味しい料理を食べて笑顔を見せてくれた瞬間というのは強く記憶に残っている。このようなお店は高いけれど、思い出を買うには安いものだ。もう数年間訪問していないので、その味も見た目もぼんやりとした記憶になってしまったが、みんなが喜んでくれた感覚は覚えている。


今は下北沢も離れ、子供も生まれたので、再訪はなかなか叶わない。これだけ時が経てば、僕が記憶する姿とは違ったものになっているかもしれない。でもいつかまた行きたいと、ずっと思っている。


r.gnavi.co.jp

 

「行ってみたいお店・レストラン」by みんなのごはん
http://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/gnavi201512